2009年10月29日 (木)

お客様より。

実況録音版のCDを聞いていただいたお客様からご感想を
いただきました。とても嬉しく思いました。


ご了承をいただいて、掲載させていただきます。


『車の中では、いつも通弘さんのCDを聴いて運転してますhappy01
通弘さんの語りも入っている今回のCDは、こじんまりした、ライヴ会場に
いるみたいで、話している通弘さんの姿が目に浮かんできますconfident

◆三味線一本だけのとてもシンプルな世界は、頭に浮かぶ青森の
情景が とても クリアに見えてきますshine

◆わたしも、一度だけ 春、桜が満開~桜吹雪の弘前城や、遠くから
望む岩木山、武家屋敷が並ぶ角館の桜並木を見に行ったことがあって
(G.Wにめずらしく桜が咲いた年です)、ついつい、春 の青森が
思い浮かんできます。

◆たとえば、三味線が、はげしくなり響く部分は、わたしの中では
まさに 桜吹雪です。そして、通弘さんが、弘前城の前に袴姿で座り、
桜吹雪の中で、三味線を弾いていらっしゃる…晴れた昼のときもあれば、
しずかな夜のときもある…そんなイメージ ですconfident

◆こんな風に、頭の中で、映像を浮かばせながら、楽しませてもらっています。

◆又、酒遊館って、どんな空気なんだろう?。リアルタイムでわき起こる
お客様の歓声や拍手の響き方 からも、ジャケットの写真を手がかりに、
酒遊館 の空間 も また 自由に想像していますconfident

◆耳から聴いた音色が、頭の中で映像となり…、つかの間、間接的ではあるけど、
自分の゛こころ”を別の場所に移すことができるので、疲れぎみの気持ちに
エネルギーを注いでくれる 元気の源shineと、なっています(^_-)heart04。』

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2009年10月19日 (月)

『豊島公会堂』

昨日は豊島公会堂でのコンサートでした。


101900

私は右手首不調のため、どんっという深い音や、カンっという
激しい音も出せませんでした。せっかくわざわざご来場いただいた
お客様に申し訳なく思いました。

今、私の出来ることで、心を込めて一生懸命、それこそ命懸けで
舞台をつとめれば、きっとお客様は喜んでくださるにちがいない。
そう思いました。
演奏一曲一曲は想いを込めて、話しも一つ一つ気持ちを込めて
いたしました。そして本編終了後、お客様のとてもあたたかい
あたたかい拍手と歓声が、私達の心に伝わってきました。

『このお客様のためなら、もう今日が最後の演奏になってもいい。』
そう思いました。

アンコール曲は、手首の痛みをこらえ通芳と掛け合いを、
おもいっきり弾きました。

その時のお客様方の喜ぶ顔、顔。


演奏者をしていてよかった!』私の至福の一瞬でした。

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2009年10月16日 (金)

『2009年8月26日 毎日新聞 関西版』

だいぶ前の記事ですが、とてもいいことを書いていただいたので、
よかったら読んでください。
8月に発売した私の初めてのライブレコーディングCDは、この会場で
昨年のライブをレコーディングしたものです。


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『音楽評

三つの顔 濃醇な音に魂

佐藤通弘 津軽三味線ライブ
(8・9日、滋賀県近江八幡市の酒游舘)
がらんとした元酒蔵に演奏者が現れ客席が黙る。
最初に聞こえてきたのは、セミの声だった。
セミが音頭を取ったという伝説の曲を弾きたくて、この時期に
ここに来たと佐藤通弘は話した。2日間で、彼の三つの顔を知った。

伝承者の顔。
最近では津軽三味線を大ホールで聴くこと多くなった。聴衆層の拡大は
喜ばしいことだが、バチが弦と皮を打つ衝撃音や、指が棹を滑る摩擦音を
聴き取るのに、電気装置はまだ未熟だ。滑らかな名人芸に流れがちな
最近のスタイルとは違い、重たくごつごつした音が、佐藤の持ち味だ。
酒でいうなら、淡麗でなく濃醇。眼前1メートルから音が耳にぶつかってくる力。
うん、と客の声がかかる。一音一魂とはこういう瞬間にこそふさわしい。

即興家の顔。
初日は即興パフォーマー浦辺雅祥との共演。佐藤が楽器を究めたのに対して、
彼は何一つ究めず、サックスもリコーダーも初めて持つかのように扱う。
息を思いきり吹き込む管以上ではないし、演奏という意識もないだろう。
体と道具(楽器)を使って、無造作に音を空間に放り出す。床に鉄パイプや鎖、
角材を転がすと、妙に物質感のある音が木の柱に反響する。
佐藤は弦をゆるめたり、バチで弦をこすりつけて反応する。彼は30年近く、
各国の即興演奏家と手を合わせてきた。どんな相手にも正対していく柔軟性を、
その夜はたしかめた。

教育者の顔。
2日目には高校1年生の弟子が登場した。緊張をほぐすように語りかけ、
入りやすいように合図を出し、技の見せ場を作るなど「教育的配慮」が行き届き、
良き師匠ぶりを見せてくれた。少年の習いたての音は初々しくすがすがしい。
磨いたばかりの酒米のようだ。今後の熟成が楽しみだ。破格の津軽三味線奏者の
心と技が、異端とならずに継承されていくのを聴いて、嬉しい気持ちがした。

(細川周平・国際日本文化研究センター、音楽評論家)』

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2009年8月 9日 (日)

『蝉しぐれ』

近江八幡 酒游舘での演奏です。
こちらでは毎年一回のペースで演奏を続けて来ました。

酒游舘は、江戸時代から続く老舗の造り酒屋、西勝酒造の
酒蔵をホールにした会場です。音響設備は一切使わずに、
三味線の激しい音はダイナミックでありながら響き過ぎず、
小さい音はあまく切なく、まことに自然な響きを持つ会場です。

例年は秋に演奏させていただいておりましたが、今年は
夏真っ盛りに参りました。それは昨年来た時に、夏になると
隣の欅の木にとまる蝉が、たいそうなくのだということを
うかがったからです。

私は『その蝉しぐれの中で三味線を弾いてみたい。』そう思ったのです。

開演は6時半。一部は約40分。蝉は日没までなきますから、
ちょうど一部の演奏は蝉との共演。

二部は私のソロ演奏ということになります。

蝉しぐれの中での演奏は、まさに無限にひろがるイメージの海でした。
洪水のような蝉しぐれの中で、目も開けられないほどまぶしい灼熱の
太陽にあぶられている私がいたり。山の端に入り込む真っ赤な夕陽に、
私の体まで染まってしまったり。
演奏の中で、様々なイメージがひろがっていきました。

その中で私は、人間の耳というものはなんて不思議なものなのだろうと
感じました。私の弾く三味線の音量と、蝉の音量とのバランスが、
聞こうとする自分の意思で自由自在に変化するのです。蝉しぐれの
洪水の中に身を置く時には、蝉の音量が最大になり三味線の音が沈む。
蝉の音を心証風景の一部にする時には、蝉の音がタンブーラのように
沈んだ低音になり三味線の音が浮き出てくる。まさに、人それぞれの
持つイメージ次第で、ボリュームのバランスを自由自在に変化できるのです。

蝉しぐれの中で、摩可不可思議な酒游舘での一夜が、過ぎていきました。

田名部 お島この
音頭 取るものは
大安寺 柳の 蝉の声
(田名部お島こ節より。)


ーーーーーーーーーーー

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昨年秋の酒游舘ライブの時にライブレコーディングしたCDが、8月8日に
酒游舘レーベルから発売になりました。今までのスタジオ録音とは違い、
テクニックのシャープさはありませんが、ライブ感溢れる構成になっております。
酒游舘の音の良さも感じていただけると思います。どうぞよろしくお願いいたします。


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2009年6月13日 (土)

『ライブ演奏の楽しさ。』

今日は新宿のとてもおしゃれなお店でのライブ演奏です。
昼夜の二回演奏。

オーナーもスタッフの方も若い女性。
お客様も女性が多いお店ということで、張り切って会場入り。
店内は三味線の反響も良くて、生音でも十分いい音。
窓の外は新宿通りで車の交通量も多いが、窓を閉めて
演奏すれば車の音は浜辺に寄せる波の音。
明るく解放的な店内、昼の部では悲しく切ない津軽音頭を
演奏する時にはどうしよう。でも目を閉じれば、ただ荒涼たる
津軽の浜辺に、寄せては返す波の音。

津軽音頭が終わって目を開ければ、お客さまが涙。涙。
やった!今日も女を泣かせちまったぜ。

俺も罪な男だなぁ。
そしてその後の話しでお客さまを沸かせて。
演奏もお話しも、お客さまとのセッション。

行って来いが面白い。

一つの空間に何十人の人が集まって、私が音とか声とかを
出してそれにお客さまが反応して、またそれに私が答えて。

みんな一緒、みんなの心が一つにとけあって、この世の中私一人
じゃないって思えるこの瞬間。

心の奥そこから幸せな感じが湧き出てくる。

夜の部はテーブルにキャンドルを灯して。仲良く顔を寄せ合って
私を見ているカップル。真剣な面持ちで私を見ている女性。
ニコニコしながら見ている初老のご夫婦。いろいろなお客さまの顔を、
キャンドルが照らし出す。

芸人は何が嬉しいかって、お客さまの喜ぶ顔を見ることが最上の喜び。

あーあ。今日も楽しかった。

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2009年1月25日 (日)

『一つ一つが、一度きりの演奏。』

今日は立川の高齢福祉施設でのコンサート。
この施設では月に一回、いろいろな音楽家を招いて
コンサートを開いているそうです。

お客様は施設の方以外にも、ご近所にお住まいの方々もいらっしゃいます。
会場に着くと舞台や音響のチェックをしてから、弟子の星野君と
施設の食堂のお昼をいただきました。

開演時間が近づき紋付き袴に着替えていると、
『もうお客様がいっぱいです。こんなにたくさんのお客様が入ったこと、
今までありませんでしたよ。』とのこと。
とても嬉しくて、なんか気分が上向いて来ました。

演奏中は演奏に集中出来て、あっという間にプログラムが
終わってしまいました。施設の方々もご近所の方々も、会場で
一つになり私の演奏もお話しも、食い入るように聞いてくださいました。

楽屋で着替えていますと、何人かのお客様が楽屋を訪ねてくださいました。
その中の一人の方が、昔のソロCD『ジョンカラ』を私に見せて、
「10年前に佐藤さんのコンサート行って、サインしてもらったCDです。」
「今日もサインしてもらえますか?。」と、おっしゃいました。
私がサインさせていただいている間にされた、その方のお話しが胸にしみました。

「10年前コンサートには妻と母親と三人で、一番前で見たんですよ。
でもその妻は三年前に亡くなりました。妻とはいつも『佐藤さんの三味線の演奏、
よかったね。』と、話していましたので、妻の葬式では佐藤さんのこのCDを流して
妻を送ったんです。昨年母親も亡くなり、今では一人暮らしです。」
「今日も一番前の席でコンサートを聞きました。10年前に三人で行った佐藤さんの
コンサートが、昨日のように思い出されて、涙が止まりませんでした。」
奥様とお母様と三人で来てくださった一度のコンサート。
この三人の方達にとって、たった一度きりのコンサートが生涯の思い出に
なったのです。とてもありがたいことだと思いました。
そしてまた、私にとっては年に何十回するコンサートでも、お客様にとっては
とても大切な一度きりのコンサートになるかもしれない。

『一つ一つの演奏が、お客様にとっても私にとっても、一生に一度しかない
大切な演奏なのだ。』と、思ったのです。

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2009年1月 1日 (木)

「お正月のめでたさよ。」

お正月のめでたさとは、『終わり無き世のめでたさに。』と、
歌にもあるように。
時に終わりが無いことを祝うめでたさなのでしょうか?

作家山本七平さんの書いた本の中で、第二次世界大戦中
召集された山本さんが、フィリピンへ向かう輸送船の甲板から
真っ赤な夕陽を見た時、『この夕陽がずっと沈まないでほしい。』と
願ったそうです。
敵潜水艦がうようよいるバシー海峡で、いつ輸送船が
沈められるかわからない。

そのような時だから『どうかこの太陽を、明日も見ることができますように。』と、
思ったのです。イースター島のモアイ象も、古代人がやはり同じように
『明日も太陽が上がりますように。』と願って作ったのだという話しを
聞いたことがあります。

時の流れの永遠。それがありがたく、めでたいのでしょうか?

早朝、通芳から電話あり。『特急踊り子号の自由席は何号車なの?
車内販売はある?』。今日通芳は、伊豆のリゾートマンションの
ラウンジライブ演奏に行ったのです。かつては、私と二人で行った旅でした。
このリゾートマンションでの1月1日の演奏は、私が20年近く前からさせて
いただいた仕事です。
通芳が中学三年生の時に、初めて通芳をこの演奏に連れて行きました。
演奏前レストランで二人、食事をごちそうになっている時、『三味線ひきはいいぞぅ。
いろんなところに行けて、おいしいものは食べれるし。女の子にはもてるし。
おまえも三味線ひきになるか?』 と、私は通芳に言ったのです。
そして『もし三味線ひきになるなら、ここの演奏の仕事はおまえにあげるぞ。』と
言うと、通芳はなんと目を輝かせて大きくうなづいたのでした。

その後この1月1日の演奏には、二人で四回行きました。
そして前回からは通芳一人で行くようになったのです。

何年も何回も演奏させていただいた場所に行かなくなるのは、とてもさみしいものです。
ましてここの演奏は、20年近くも通っていたところです。でも不思議と、今回は
寂しさを感じないのです。
通芳が演奏することによって、通芳を通してこの演奏とお客様を私も
感じることが出来るような気がするのです。
そして毎年私の三味線を楽しみにしていただいたお客様達も、通芳を
通して私をも感じてくださるのではないかと思えるのです。

もうすぐ8時。あちらでは開演の時間です。
所長の新年の挨拶のあと通芳が紹介されます。
紋付き袴姿の通芳がスポットライトの中に登場。それを拍手で迎えるお客様達。
すべて私には、まるで見えるようにうかんでくるのです。

永遠に続く時の流れ。なんとめでたいことなのでしょう。

新年 明けましておめでとうございます。 元旦。

佐藤 通弘


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2008年11月 4日 (火)

「酒游舘 ライブレコーディング。」

昨夜は酒游舘で、15回目のライブ。
そしてライブレコーディングをしました。

私にとって、ライブレコーディングは初めての経験でした。

今までレコーディングは、すべてスタジオでしています。
私の場合、スタジオでレコーディングしたCDの演奏と、
お客様の前でするコンサートやライブでの演奏とは、
きっと違うものなんだと思います。

スタジオでの演奏は、テクニック的に間違わないように
ていねいに弾いているので、きれいでミスがほとんど無く
録ることが出来ます。
しかしライブレコーディングだとライブ感はよく録れると
思うのですが、私は演奏に入り込むと、どれだけミスを
してしまうのかわかりません。

ですから今まで、ライブレコーディングはしたことがなかったのです。
今回はいったいどうゆう録音になるのか、それがこわくもあり、
また楽しみでもありました。

一部の演奏が始まりました。
針の落ちる音も聞こえそうなほどのすごい緊張感。

私の緊張がお客様にうつったのか、ライブレコーディングということで
緊張されたお客様の緊張が私にうつったのか。
こんな緊張感は久しぶりです。息もできないくらいです。
その緊張感を反映してか、三味線の音色が硬く響きます。
『これじゃいけない。』と思いつつも、肩も手首も硬くなります。

でも一部最後の曲『津軽よされ節』を弾きはじめると、だんだんに
演奏の中に入り込んで行くことができました。

三味線を弾いている意識がなくなり、レコーディングしていることも、
ミスをしないようにしなきゃという気持ちもみんな飛んでいきました。

するとお客様も、今までの緊張感も硬さもすっ飛んで、曲中にも
すごい掛け声と拍手。

やっといつものライブ演奏になりました。
休憩後の二部の演奏は、ミスもレコーディングも意識しなくなっていました。

今回ライブレコーディングしたこの音源は、来年酒游館レーベルとして
リリースする予定です。きっとミスもたくさんレコーディングされていると
思います。三味線をなさっている方のお手本にはならないでしょう。


でもライブ感だけは、ふんだんに入っていることでしょう。

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2008年11月 2日 (日)

「一番の幸せ。」

今日はお弟子さんを教えに、新幹線で大阪に向かっています。
とても穏やかなお天気。
新横浜駅を出ると、田んぼの向こうの霞みのなかに富士山と
丹沢の峰々が浮かんでいます。

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若い頃の私は、三味線を教えるのが嫌で嫌で仕方がありませんでした。

『私は演奏家であって、三味線の教師じゃないんだ!』という思いがあり、
イヤイヤ教えていたのです。
今思えば、その頃のお弟子さん達には大変申し訳ないことをしました。
私はこれまで35年間もの長い間三味線の演奏を続けてこれましたのも、
若い頃から私の師匠をはじめとしてたくさんの方々に支えられてきたからです。
その私が今度は、これから三味線を学ぼうとしている方々に、私の出来ることで
お返ししなければならないはずです。
そしてこの頃さらに思うことは、お返しをするとかということではなく、
『私を求めている人がいる、私を必要としている人がいる。』そのことが、
人としてどんなに幸せなことであるか。ということなのです。

演奏家のプロとアマチュアの違いとは?ということに対して。
むかし私は『演奏のうまい人がプロなんだろう。』思っていました。
でもこの頃、『聴衆のためお客様のために演奏するのがプロの演奏家。
自分のために演奏するのがアマチュアの演奏家。』なのではないかと
思うようになりました。

私の演奏を聞いてくださるお客様がいる。
私を必要としてくれるお弟子さんがいる。

これが私自身の、一番の幸せなのです。

110202


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2008年10月22日 (水)

招待のお知らせ!!

10月26日に開催されます
「伝統の響き 親子で楽しむ邦楽コンサート」の
受付は10月20日で終了しましたが、
出演者枠で20枚分のチケットがございますので
急遽当サイトでも受付することになりました。

鑑賞ご希望の方は、
件名を『10/26明治神宮』として
お名前、連絡先、枚数を明記の上、メールをお送り下さい。
management@tsugaru-michihiro.com

入場方法に関しては改めてメール致します。

受付期間:10月22日14時~10月24日23時

コンサートの詳細はこちら

皆様のご来場心よりお待ちしております。

管理人

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2008年9月27日 (土)

「門下生発表会。」

今日は二年に一度の発表会です。

千葉県の若葉文化ホールで、昨夜は舞台、音響、照明の仕込み
リハーサルをしました。

そして今日は本番。

門下生の皆さんは朝から緊張の面持ちで楽屋入りです。
私は門下生の皆さんに、プロの演奏家と同じような舞台を経験させて
あげたいのです。ですから発表会では、いつも私のコンサートでお世話に
なっている音響、照明、舞台監督、進行などのスタッフの方々をお願いして、
大きなホールで発表会をするのです。

出演の門下生は当日、会のもろもろの雑用を離れて、自分の出番のことだけを
自分の演奏だけを考えればいいようにしたいのです。

門下生の皆さんの出演前の緊張に耐える姿。
演奏中の真剣な顔。
そして演奏が終わった後に見せる感激の涙。

私はそんな皆さんの顔が見れるのが、この上のない幸せなのです。

閉幕演奏は門下生全員で『ドダレバチ』を演奏します。
一人一人が自作の歌詞で、一番づつ唄っていきます。私が最後に唄い後奏で
盛り上げ、緞帳が下がります。その緞帳をすぐにまた上げて、
会場のお客様と一緒に
『お手を拝借。
よぉー!しゃしゃしゃん しゃしゃしゃん しゃしゃしゃんしゃん
よぉ!しゃしゃしゃん しゃしゃしゃん しゃしゃしゃんしゃん
お!しゃしゃしゃん しゃしゃしゃん しゃしゃしゃんしゃん!
ありがとうございましたー!』。

今年の発表会の緞帳も、めでたく降りました。

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2008年8月 7日 (木)

「爆心地ライブ。」

昨夜は、広島での爆心地ライブに参加しました。

出演はおおたか静流さん、パンクロックの遠藤ミチロウさん、
そして私の三人でした。

立ち見でいっぱいのお客様。
外国人のお客様も多く、日本離れした長く熱のこもった拍手を
いただきました。

昨日は広島原爆投下の日。広島では様々な催しが行われていました。
広島県庁前を、何万人とも知れないデモ行進が行きました。
街中に、平和を求める気持ちが満ちているようでした。

今日は新幹線で大阪に行きます。
広島駅の新幹線口のトイレに、落書きに対する「お願い。」と題する
掲示板がありました。私はこれを読んで、久しぶりに感動をしてしまいました。
一番下には「広島駅長。」と書いてあります。

080701

これを掲示させた駅長さんは、鉄道員としてだけでなく、人としても
立派な方だったのではないかと思いました。この掲示板のあるトイレには、
落書きはまったくありませんでした。

以下が、広島駅新幹線口にあるトイレの掲示板の内容です。
【お願い
新幹線口トイレにおいて在日韓国・朝鮮人を誹謗する極めて
悪質な差別落書きがありました。
過去において、朝鮮の方々に対する強制連行、強制労働という
歴史的事実があり、その方々の多くは鉄道工事をはじめ数々の
工事・基幹産業に従事させられました。
鉄道の発展、日本経済の発展はこうした朝鮮人の労働を抜きに
してはありえませんでした。
私たち広島駅社員は、このような在日韓国・朝鮮人と鉄道との
深いかかわりや歴史的事実を正しく認識し国際平和都市の玄関口に
ふさわしく、お客様に安心してご利用いただける駅にするため、
差別のない人間味あふれる豊かな駅づくりに取り組んでいます。
ご利用の皆様にご協力をお願いしますとともに、もし落書きをした人が
この掲示を見られたら、二度と同じ過ちを繰り返さないよう切望します。

1998年2月1日
広島駅長 】

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2008年6月21日 (土)

「お寺のコンサート。」

今日はお寺でのコンサートです。
山門から参道、演奏会場の本堂にかけてキャンドルが灯され、
本堂もたくさんのろうそくが灯されます。

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このお寺は、酒々井と南酒々井の間の山中にあります。
むかし母が車でお寺の前の道を走っていた時、突然頭上の木々
から蛇がドサッっとフロントガラスに落ちて来て、母は「キャー!
キャー!」と叫びながらワイパーをブンブン振り回して、突っ走って
逃げたそうです。また猿に出会ったこともあったと、言っておりました。

私の住まいの住宅地から程近い所に、こんな山中の風雅なお寺が
あるのを、私は知りませんでした。

やがてキャンドルの灯が輝き出す頃、演奏がはじまりました。

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本堂いっぱいのお客様。ほの暗いろうそくの灯がゆらめく中、
お客様方の私を見つめる顔だけが浮かび上がります。

本堂の中に響く三味線の音は、大きい音はやかましくなく、小さい音は
澄んだように通りました。この風景、以前に何度も何度も見たことが
あるように思いました。私は今まで、何度かお寺で演奏をさせていただい
たことがあります。でも、それよりもっともっとたくさんこのような風景を
見た気がしたのです。

私の師匠のそのまた師匠の頃。
旅の中に日々の暮らしがあり、たどり着くその村の庄屋様のお屋敷や
お寺で、村人を集めて三味線や唄を聞かせたという。その頃の私の芸の
祖先達が、私の目を通してこの風景を見ているのでしょうか。
そして懐かしく、嬉しく思っているのでしょうか。

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2008年6月 1日 (日)

「さすらいの街。」

今日の湖西市民会館での演奏のため、昨夜は久方ぶりに浜松に宿泊。

ホテルは、浜松に来た時には以前よく泊まっていたホテルを予約をして
いました。浜松の駅前はすっかり変わり、駅から歩いてすぐのホテルに
なかなかたどり着かない。
ホテルの建物は見えているのにそばに行けないのがもどかしく、持って
いる三味線が重く感じられました。

ホテルにチェックインして荷物を置いて、コンビニに水を買いに出る。
広い駅前広場は、地下のロータリーになってしまった。
地下ロータリーの真ん中には木々が植わり、なかなかいい感じ。
そこから見上げると、私の泊まるホテルが見える。ホテルは変わっていな
いのに、その周りの景色がまるで変わってしまっているのが何か変な感じ。
その古いホテルだけがタイムマシンで未来都市に来たみたいです。
私が訪れる地方都市はみな不思議。
特に一人で夜中にさすらう街は霧がかかったようにかすみ、街灯は
淡く目にしみます。未知の街をさまよっていても、『あ、ここはいつか
来たことがある。』と確かに感じることがあります。

それは夢の記憶か、はたまた前世の記憶なのか。

ホテルに帰り、窓から見た駅前の景色もまた不思議でした。ホテルの
中は、何回も泊まったことのある見覚えのある古いホテルの様子。
ホテルの窓の外は未来都市のように変わってしまった景色。

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さすらう街の不思議さよ。

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2008年5月23日 (金)

『今日はいい日。』

今日はいいお天気。夏のような青空。
私の乗った電車は、森と住宅地の中を埼玉へと向かいます。
今日はたった一人のお客様のために演奏をするのです。

その方が私のお客様になってくださってから、もう二十年以上にも
なるでしょうか?!その方は、たとえば私が地方の演奏会場で、舞台の
袖から客席をのぞいたりしていると、『あれ、こんな遠いところまでいらして
いる!』と、驚かされるような、そんな方でした。
「佐藤通弘通信」を送った後にお手紙を頂いたり。四季折々のお葉書、
故郷のお土産など。とてもよくしてくださいました。
私が右手がまったく動かなくなり、三味線が弾けなくなってしまった時、
わざわざ自宅までお見舞いに来てくださいました。
その時私は、もう二度と三味線が弾けないかもしれないというところまで
追い込まれていました。
でもその方のおかげで、『私が三味線を演奏することを、楽しみにしていて
くださる方がいる。私の三味線を必要としている方がいるんだ。』と、思うことが
できました。そのことが、どんなに私の励みになったことか。

その後、ご自身が経営されていた会社を後進に譲られ、自ら老人施設に
転居された後、足の骨を折られてしまいリハビリ中と聞きました。
私はずっと気がかりだったのです。ところが今朝の明け方、夢を見ました。
その方がただじっと私を見ているのです。何もおっしゃらず、ただじっといる
のです。

私は起きるとすぐ電話して、施設に伺うことにしたのです。
駅からタクシーで五分、緑に囲まれた静かな佇まいの中に施設はありました。
私はその方のお部屋で、お一人のために三味線を演奏するつもりで行きました。
ところが、『私一人で聞くのはもったいないから。』と、施設の集会所を借りていて
くださり、私が着いた時にはもういっぱいのお年寄りが待っていました。

私は一生懸命演奏しました。

これが私の出来るただ一つの恩返しです。

帰りには玄関までお見送りをしてくださいました。タクシーの後ろの窓に、
手を振るその方の姿が小さくなっていきました。頂いたたくさんのお土産の
袋の中に、短い手紙がありました。

『今日はとてもいい日です。』

私の心の中に何かとっても暖かいものが、たくさんたくさんあふれて来ました。

今日はほんとうに、いい日です。


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2008年5月16日 (金)

「町田モコモコ」

今日は町田の『モコモコ』というカレー料理専門のお店でライブ演奏。
三味線一本ライブです。

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このお店では、月に一回から二回ライブ演奏を催すそうです。
私の知っている音楽家では、スパニッシュコネクションの平松加奈さん
やタブラの吉見征樹さんなどがよく演奏されるそうです。

田根さんと会場入りをして音を確かめてから、開演まであたりをぶらつき
ました。
このあたりは私にとってとても懐かしいところ。お店の向かいは町田市役所、
歩いて数分のところには私の母校 町田市立第一中学校があります。

中学校の時の私はまるっきりの子供で、いたずらばかりしていました。
友達とよくこの市役所の中で遊びました。市役所食堂でこっそりカレーライスを
たべたり、立ち入り禁止の市議会議場に忍び込んで、警備員に見つかり
追いかけられたり。また、そばには町田に古くからあるお肉屋さんがあります。
このお店の、もう亡くなった先代のおばあさんには、私が保育園の頃から
いろいろと可愛がってもらいました。

二人でぶらついていたら、いい感じの喫茶店がありました。
4人掛けのテーブルが4つにカウンターだけの小さな喫茶店。そこで紅茶と
フレンチトーストを頼みました。マスターは時間と手間をかけてフレンチトーストを
作ってくれました。
飲食店に入ればほとんどのメニューがレトルトか冷凍食品という昨今、
手作りのフレンチトーストがとても美味しく嬉しく感じました。
紅茶は白いポットで香りたかく、フレンチトーストはふわふわでした。

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高級ホテルのレストランならいざ知らず、500円のフレンチトーストに心を込めて
お客様のために一生懸命作るマスターに、感動すら覚えました。

開演まであと30分。
さぁ私も、心を込めて一生懸命、演奏しようと思います。

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2008年5月13日 (火)

「父との栃尾又温泉」

久方ぶりに訪れた栃尾又温泉を後にして、今日はバスと
鉄道で帰ります。夜には、帝国ホテルでの演奏があるのです。
栃尾又温泉を出たバスは、山道をくねりながら坂を下って行きます。

051301

栃尾又温泉には、昨年亡くなった父親と二人で来たことがありました。
十年くらい前だったと思います。父親と一緒に肩を並べてお湯に
浸かりました。お年寄りが多い栃尾又温泉ですが、同じ年寄りでも
私の父は筋肉質で、肩や腕にも筋肉が盛り上がっていて、
『俺のおやじは、まだまだカッコいいな。』と、なんだか誇らしい気持ちに
なりました。
同じ部屋で枕を並べて寝る時には、私に枕カバーのかけ方を教えて
くれました。私に教えるのがとても楽しそうに見えました。
でもそれからが大変。いびきはうるさいし、夜中にトイレに何回も起きて、
ガタガタとうるさくて寝てられません。
『もう二度と二人でなんか来ないぞ!』と、思ったのです。
それから本当に、二人でこの温泉に来ることはありませんでした。
これが父と二人での、最後の旅になりました。

山道をゆっくりと下るバスは、坂道を下りきると、『見返り橋』という橋を
渡ります。昔、近郷近在の農民達が冬の間、ひと月ふた月という長い
湯治をしに栃尾又温泉にやって来ました。
そして湯治を終えて帰る時に、この見返り橋から栃尾又を見返り、
楽しかった湯治に別れを惜しんだそうです。

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バスが見返り橋を渡る時、私もバスの窓から栃尾又を見返りました。
そして父と過ごした栃尾又に、別れを惜しんだのです。

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2008年5月12日 (月)

「久方ぶりの栃尾又温泉」

二年ぶりに栃尾又温泉を訪れました。

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(湯治場の趣栃尾又温泉旧館)

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(栃尾又温泉渓谷の浴舎)

私がこの温泉を初めて訪ねたのは、もう十数年前にもなります。
その年は、サクスホンの坂田明さんのミジンコ空挺楽団のメンバー
として、中国やモンゴルなどの国々を何ヵ月も演奏して回るはず
でした。
ところが一国めの中国北京公演の時に具合が悪くなり、私は
北京公演だけで帰国することになってしまいました。
その頃の私は体の調子が悪いことが多く、「ああ、今日は演奏が
出来た。でも明日は出来るのだろうか?」と、毎回毎回の演奏を
するのがやっとという状態でした。
この途中帰国という最悪の事態に、坂田さんや他のメンバーの
皆さんに対して申し訳ないという気持ちと、音楽家としてこんな体で
やっていけるのかと、体の具合もさることながら気持ちがとても
落ち込んでしまいました。

帰国してそのまま家で落ち込んでいるよりも、一人でどこかに行こうと
思いました。その時思い出したのがこの栃尾又温泉でした。
以前より、尺八奏者の木津竹嶺先生から栃尾又温泉の素晴らしさを
伺っておりました。
栃尾又温泉は日本でも有数のラジウム温泉です。ラジウムから出る
放射線は、体の細胞を刺激し活性化していきます。
だからお湯に入らなくても、この土地に来るだけでも体が良くなるんだと、
竹嶺先生がよくおっしゃっていました。

私は一人で一週間、この栃尾又温泉に滞在しました。
毎日毎日、午前、午後、夜と、温泉に浸かりました。湯温はほぼ体温と
同じ、お湯に浸かるとまるで母親の胎内にいるよう。
ひとりでに体が胎児のように丸くなり、心が落ち着いていくのがわかります。
他の湯治客も、お湯に入るとじっと無言で微動だにしません。ただただ
温泉に入って、ご飯を食べて寝ての繰り返し。お湯に浸かりながら青い空を
流れゆく雲、浴舎の対岸のブナの林、ふわりふわりと空を舞うように散る
落ち葉を、浴槽の大きな窓から眺めていました。

すると四日めくらいから、魂の奥底からむくむくと沸き上がるように
『三味線が弾きたい。』という気持ちが湧いて来ました。
『そうだ。体の具合がどうなっても、一回でも二回でも演奏が出来れば
それでいいじゃないか。私は演奏する為に生かされているんだから。』
そう思うことが出来るようになりました。
もう早く帰って三味線が弾きたくて仕方がありません。
栃尾又温泉に来た時は下を向いて歩いて来たのに、帰りは力が
みなぎっているようでした。

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(栃尾又温泉子持杉)

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(栃尾又温泉夫婦欅)

今も、キラキラと新緑にかがやくお湯に浸かりながら、あの頃のことを
思い出します。

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2008年5月 1日 (木)

『お客様はありがたい。』

昨夜は、西荻窪の音や金時でライブでした。
ジプシーヴァイオリンの太田恵資さんと、タブラの吉見征樹さんとのトリオです。

私は連日の疲れと気温の高さのせいか、ぐったりしていて体に力が
入りません。いつもならお客様がいらっしゃる前に一時間くらい三味
線を弾くのだけれど、今日は10分くらい弾いたらお茶を飲みに行って
しまいました。
なかなか、「よーし。演奏するぞ!」という気分にならないのです。
「どうしよう。」と思っているうちに、お客様がぞくぞくと入ってくるでは
ないですか。今日はゴールデンウィーク中だというのに。

私が三味線を持って舞台に上がると、楽しそうにざわめいていた客席が
一瞬にして水をうったように静まり、はりつめたような緊張感のある空間
になりました。お客様の緊張感が、そのまま私の緊張感に移りました。
先ほどまでの、だれたぐったり感はすっかり無くなり、「三味線を弾きたい!」
という気持ちが体の奥底からわいて来ました。
その時から最後のアンコールまで何も考えることなしに、ただ体の動くま
まに演奏をしていきました。

最後のメンバー紹介の時には、まるで大ホールでのコンサートのように
、「魅惑のジプシーヴァイオリン、太田恵資ぇー!! 指先の魔術師、吉見
征樹ぃーー!!。」と、絶叫してしまいました。
ぐったり感などすっかり忘れて、演奏をする前と後ではまるで違う体になって
いました。

よく、「佐藤さんの演奏でパワーを貰いました。おかげさまで元気になりました。」
なんて言ってくださるお客様がいらっしゃいますが。本当は逆で、パワーを貰って
いたのは私の方だったのです。

お客様はありがたいありがたい。

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2008年4月30日 (水)

「祭りの後の。」

成田山総門前奉納大合奏は、爽やかな青空の下、無事に終える
ことが出来ました。

様々な流派の津軽三味線奏者の方々が心を一つにしての演奏、
青空と同じようにすがすがしい気持ちになりました。

すべての演奏を終えて一旦自宅に帰り、電車で成田山参道の
うなぎ屋さんに行きました。遠い鹿児島から、大合奏のために
成田まで来てくださった方々と、食事会をしたのです。

盃を重ねるうちに宴は盛り上がり、「二年後には鹿児島で発表会
をしよう!
」ということになりました。
同じ参道の他のお店で、やはり打ち上げ会をしていた尺八の勇厳
先生や太鼓のよしみさんも乱入していらして、宴はさらに盛り上が
って来ました。
大合奏に参加してくださった皆さんが、このようにご機嫌な様子を
見て、私はとても幸せな気持ちになりました。

関東一本締めで宴をお開きにして、みんなで参道をそぞろ歩き。
成田山参道のお店は、朝が早いかわりに夜は早く。
他のお店は閉まってしまい人通りも無くて、参道はもうすでに深夜
の風情。
鹿児島の方々はホテルに、勇厳先生は京成成田駅に。
みんなが少しずつ別れて行きます。

参道の街灯の淡いひかりが、やけに心にしみます。

成田山参道の夜は、さみしいのです。

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2008年4月29日 (火)

「成田山大合奏」

今日はいよいよ、成田山総門前での奉納大合奏。

今日のために成田市観光協会の方々と打ち合わせを重ねて来ました。
170名ものいろいろな流派の津軽三味線奏者方々が、日本各地から
成田に集まってくださるのです。
慣れない細かい打ち合わせも苦になりません。

なにかわくわくする思いです。

思えば三十年前、私の師匠山田千里が津軽弘前で初めての
津軽三味線競技大会を開き、その後津軽三味線のふるさと
岩木町体育館で、数千名による大合奏を催しました。
これらの師匠の功績が、現在の津軽三味線の隆盛につながったと、
私は思っています。

私はその千分の一万分の一でも、師匠の真似がしたいと思っています。
津軽三味線は、きびしい津軽の風土が生んだ独特な三味線音楽です。
競い合いながら生まれた三味線です。かつては食べる物も食べれない
ような貧しい津軽の人が、他の人を蹴落としても這い上がり、お金や
名誉を得ようと三味線を弾きました。
ですから今でも津軽三味線のイベントでは「バトル。」というものが多いの
だと思うのです。

しかしこれからは津軽三味線も音楽芸術の一つとして、世界の津軽
三味線になるためには、戦いだけではではなく、相和すということも
大切になっていくと思います。
今日は抜けるような青空のもと、津軽三味線を愛する方たちと心を
一つに、津軽三味線を奏でたいと思います。

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2008年2月20日 (水)

「月日は百代の過客にして・・・」

上野発札幌行きの北斗星号に乗って、釧路に行きます。

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福島県に入る頃から、車窓は雪景色になりました。私は日々
旅の中にあります。

時には今回のような遠くまでの旅。

また時には一時間足らず近い旅。

三味線の演奏の為にいろいろな旅をします。

そのいろいろな旅の中にある私に、安らぎすら感じます。
むかし演歌のショーのゲストに呼んでいただいた時に、ある
高名な姓名鑑定をなさる方が楽屋にいらして、私の名前を
みてくださったことがありました。

私の名前はその方によりますと、『何をやらせても3日ともたず、
同じことを続けることが出来ない。

大凶です。
ただ、針の先のように繊細さがある名前です。』とおっしゃいました。

なるほど私は学生の頃からアルバイトでも3日続けないうちに、
嫌になってしまったり風邪をひいてしまったり、一週間と続きま
せんでした。

三味線の演奏を始めてからも、演劇の仕事のように、同じ会場で
同じことを10日20日一ヶ月と続けるような時には、つまらない毎日
で気が狂いそうになったことがありました。

私は日々違う会場、違う内容、違う方々の中でということで、
新鮮な気持ちで三味線の演奏を続けることが出来るのだろうか、
と思いました。

雪の行路をひた走っていた列車は、いつのまにか止まっています。
青森信号所です。

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機関車を交換して函館を目指します。

『月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。』 松尾芭蕉

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2007年12月 6日 (木)

「北帰行(その二)」

弘前駅に迎えに来た通芳と二人で、師匠山田千里のお墓参りに。

お墓に積もった雪はさほどではなく、手で雪を掃除しました。
お花を替えてお線香を焚いて、手を合わせます。

『先生。私が三味線を弾けるのも、私が三味線を弾いて幸せなのも、
すべて先生のおかげです。ありがとうございます。ありがとうござい
ます。』

まるでお経のようにぶつぶつと語りかけると、ひとりでに涙がこぼれて
きます。
胸が感謝の気持ちでいっぱいになりました。そして生前先生に会えた時に
いつも感じていた、あのつつまれるような安心感がありました。

翌朝、弘前駅まで通芳は見送りに来ました。
駅中のドトールで、二人無言でお茶を飲みます。さぁそろそろ改札口に
行こうという時、通芳がケーキが食べたいと言い出しました。
テイクアウトのケーキを買ってあげて改札口へ。

お互い「じゃあ。」「うん。」と、私は改札を通りました。
しばらく歩き階段を降りかけた所で改札口を振り返ると、通芳は
まだそこにいて、買ってあげた小さなケーキの箱を持ったままこちらを
見ています。

私が手を上げると、通芳も小さく手を上げました。

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2007年12月 5日 (水)

「北帰行(その一)」

今日は私の芸のふるさと弘前に、久方ぶりの里帰りです。
私の芸の親である師匠の墓参りと、ママさんの顔を見に行きます。

上野駅地平ホームから、寝台特急「あけぼの」号での北帰行。

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弘前に行く夜行列車の旅には、様々な思いが交錯します。
上野駅を出る時は、夜行列車が出発するる時の哀愁を帯びた寂しさ。
やがて列車が走り出すと、わくわくする旅の楽しさ。
そして朝、弘前に近づくとこれから師匠に会える嬉しさと不安。

長いような短いような、12時間の旅です。

列車は上野駅をしずしずと動き出しました。
鶯谷のネオンの向こうに、オリオン座がかすかに見えます。
次は大宮駅に停車です。大宮駅のホームには、お勤め帰りの
お客さんが大勢並んでいました。
寝台車の中でくつろいでいる私と目が合ってしまうと、お互い目を
そらしてしまいます。
大宮駅を出ると、少しずつ街の灯りが少なくなり、空の星が輝きを
増していきます。
窓の右上にはオリオン座、左上には北斗七星。

高崎駅を過ぎるともう街の灯りはまったく無くなり、窓から見えるのは
星のまたたきと、うっすら浮かび上がる遠い山々のシルエットだけです。

長い長いループトンネルを抜けると、一面の雪景色。
寝台車の窓は次々に変わる風景画の額縁です。寝台に腹這いに
なって窓に額を寄せながら夜の景色を眺めていると、なかなか
寝ることが出来ません。

水上駅を過ぎ新津駅を過ぎた頃から記憶が無くなりました。

明るい日差しの中、ふと目を覚ましました。
車内はしーんと静まりかえっています。列車の揺れも走行音もしません。

窓の外を見ると鉛色の空の下、日本海の荒波が打ち寄せています。
強風が原生林の木々を揺らし、電線がうなり声をあげています。
駅でも無いそんなところに、列車はぽつんと停まっているのです。

強風のため列車の運転を見合せ、と放送が入りました。
ふつう列車が駅の途中で停まってしまったら、とても不安に思うものです。
でも今は違います。寝台車に乗っているのです。浴衣姿で寝そべって
いればいいのです。水も食料もあるし、トイレもある。
何時間停まっていても大丈夫。『このままここで、いつまでもいつまでも
停まっているのかなぁ。』と思ったら、かえってわくわくして来ました。

やがて列車は時速15キロの徐行運転で動き出しました。
日本海の荒波や強風に揺らぐ林や、長い鉄橋をゆっくりゆっくりと。
小さな町の小学校に登校する子供達は、『おはよう。』と声を掛け合って
いるのが聞こえるようです。無人駅を通過すると、女子高生がホームの
待合室にすし詰め。浴衣姿で外を見ている私を指差して笑っています。
また眠ることが出来なくなりました。

弘前駅には、一時間半遅れでの到着。
寝ぼけまなこの通芳が、改札口に来ているでしょうか。

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2007年11月15日 (木)

「広島にて。」

昨日、茅ヶ崎市民会館で高校生を対象にした学校公演を終えて、
そのまま東京駅から広島に入りました。

朝、目を覚まし、ホテルの窓から空を眺めると抜けるような青空。
宮島のあなご飯弁当を買いに行くことにしました。
広島駅から電車で30分弱。宮島口駅に着きます。あなご飯弁当は
宮島口駅の駅弁なのですが、駅ではなかなか手に入りません。
駅から少し歩いて弁当屋さんへ買いに行きます。
ところが弁当屋さんの前はすごい人。あなご飯弁当は予約しても、
今から二時間後だそうです。

予約をしてから、日本で唯一残った鉄道連絡船に乗って宮島へ。
宮島は折しも紅葉の季節とあって、すごい人。
かつて、連合艦隊司令長官山本五十六が愛人と密かに逗留した
『岩惣』も、観光客でいっぱいでお茶も飲めません。
人は多くても、もみじ谷のもみじは素晴らしかったです。

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今夜は『広島オーティス』でのライブ。
もう何年続いているのでしょう、年1、2回の『オーティス』でのライブ。
今夜もマスターの佐伯さんをうならせる演奏をしなければ。

佐伯さんに、「今回の演奏も素晴らしかったです。」と言われたいのです。

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2007年10月20日 (土)

「成田弦まつり。」

成田弦まつりは数年前から三味線、主に津軽三味線をメインに
したお祭りにしようと、成田商工会議所が主催して行っております。

私も近くに住む津軽三味線奏者の一人として、私の出来ることで
協力させていただいております。
特に今回は、成田山本堂での百人大合奏をするということで、
私もいろいろな津軽三味線の先生方に参加を呼び掛けました。
おかげ様で今回は、目標を大きく上回る約130名の津軽三味線
演奏者の方々が集まって下さいました。

白い鰯雲が浮かぶ青空の下、たくさんのお客様を前に本堂前
大階段にて、私の師匠の作曲した『あどはたり』を合奏しました。
いろいろな流派の方々が心を一つにして、このような晴れの
舞台を共にすることが出来て本当に嬉しく思いました。

十数年前私の師匠は、青森県岩木町を津軽三味線のふるさと
として、津軽三味線フェスティバルを開催して、日本全国いろいろな
地方の先生方に声をかけて、流派を越えて一つのフェスティバルを
創りました。

その時もやはりこの『あどはたり』を、岩木町体育館で
数百名の大合奏をいたしました。
今にして思えば、師匠の企画したこのフェスティバルと弘前の
三味線コンクールが、津軽三味線の世界を開かれたものにして、
そのことが若者達による現在の津軽三味線ブームに繋がっていった
のではないでしょうか。

本堂前大階段からふと空を眺め、師匠に語りかけました。

『先生。私は今でも、先生の後ろを追いかけています。』


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2007年9月25日 (火)

「通芳のあの顔。」

今日は杉並公会堂でコンサートです。
通芳は弘前から夜行列車で上野に着き、幕張免許センターで
免許更新してからの会場入り。
いつもながら通芳のハードスケジュールには驚きます。
もう少し体を大切にすればいいのに。

コンサート第二部の、私と通芳とのトークの中で、私は通芳に
突然『明日は何の日だか知ってるか?明日はなぁ。通芳の
誕生日だ!誕生日おめでとう!』と言い。
そして会場の皆さんに、『ご唱和お願いします!』とお願いして、
ハッピーパーティーの歌を歌いはじめました。
すると皆さんも、大きな声で歌って下さいました。
その大合唱の中を、吉見さんがダンスを踊りながらケーキを持って登場。
通芳は皆さんの大合唱の中でケーキを渡され、嬉しそうに戸惑っていました。

通芳が小さい時に、嬉しいことがあった時によくしていた、なんとも
言えず嬉しそうなあの顔を、私は久方ぶりに見ることが出来ました。

会場の皆様、本当にありがとうございました。
こんな千人以上のたくさんの皆様に21才の誕生日を祝っていただける
なんて、通芳は幸せなやつです。
通芳の顔を見ているうちに、私はとても幸せな気分になりました。
鼻の奥がつーんとして来て、思わず涙が湧いてきました。

もしかして本人よりも、私が一番幸せで嬉しかったのかも知れません。

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2007年7月29日 (日)

「すごいパワー。」

今日はいわきカトリック教会でのコンサート。
いわきの『縄文ソウルの会』の皆様による催しです。

今回は『風の吹く街へ。』と題して、51回の記念のコンサートなので、
たいへん大がかりな盛りだくさんな催しです。
一部は私と尺八の田辺頌山さんの演奏。その中に一曲、詩の朗読があり、
私達の演奏や朗読と共に沢田としきさんがライブペィンティングをしています。

二部前半は三上寛さん、後半は短歌絶叫の福島泰樹さんとウ゛ァィオリンの
柴田奈穂さんの共演。その演奏の時にも地元作家によるライブペィンティング
があります。

今回感じましたのは、三上さんのすざましきパワーでありました。
ギターを抱えたあの三上さんの体の中には、いったいどんなパワーの
源が入っているのだろうか?と思ってしまいました。

『とても普通の人間ではないなぁ。』と思わせる、すざましきパワーを
感じてしまいました。昨夜は青森県の雑誌の、掲載の為の座談会が
ありました。出席したのは、もちろん青森県人の三上さん沢田さん。
縄文ソウルの主宰者とスタッフである新妻さん鈴木いさおさん。
それに私と編集者の方々でした。約四時間にわたる座談の中で、
三上さんのその言語のめくるめく即興性と飛躍。
言語のイメージだけで応酬される非現実的な時間が流れて行きました。
その座談する三上さんのパワーのすごさもまた、普通ではありませんでした。
三上さんや福島さんのような、いわゆる団塊の世代というか、かつての
新宿世代、新宿花園神社あたり世代の、すごさをまの当たりにした思いでした。

今日のコンサートでももちろん、そのすごさを発揮されました。
このパワーにまともに向かっては私はとても太刀打ち出来ません。
私は今日はパワーではなく、わびさびの世界で演奏してみました。

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2007年6月16日 (土)

「竹林寺。」

今日は牧野植物園での演奏会です。

豊かな緑に囲まれた高台にある植物園。

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建物は木材を多用し天井も高く、演奏にはとてもいい響きの
会場でした。今日の共演者は昨日に引き続きタブラの吉見さんと、
地元在住の語り部の兼松憲一さんです。

私と吉見さんとの演奏が一部と三部。間の二部は兼松さんの語りに
私達が参加します。
一部の演奏は、まず私のソロ演奏からです。私が出す三味線の響きが
会場の四方の壁から、あまく艶っぽく返ってきます。
その響きを聞きながら三味線を弾いていくと、だんだんその音の中に
自分の魂が入り込んでいくのがわかります。
目の前に現れた淡い光が次第に大きくなり、私の体もなく三味線もなく、
その光の中に包まれてゆく。そうなるともう、私の意思は要りません。
私の意思には関係なく、三味線がひとりでに音を作り出してゆきます。
私はただその淡い光の中に身を委ねているだけ。
至福の時です。『ああ、なんて私は幸せなんだろう。』と思ってしまいます。

二部の兼松さんの語りは「かぐや姫」。

そして三部は吉見さんと盛り上がりました。
三味線のおかげ、共演の吉見さんや兼松さんのおかげ、聞いて下さった
お客様のおかげ、演奏の機会を作って下さった主催の方々のおかげ、
いい響きを返してくれた会場のおかげ。皆さんのおかげで私は、元通りの
元気を取り戻すことが出来ました。本当に有難いことだと思いました。

終演後にすぐそばにある竹林寺に、吉見さんと一緒に連れていって
いただきました。

竹林寺は、有名なよさこい節の、『〓坊さん かんざし 買うを見たー よさこいよさこい〓 』という歌詞の中に出てくる、かんざしを買った坊さんがいたお寺だそうです。


山門から参道をたどって行くと、古い石段、苔が一面に広がるお庭、
神秘な色をたたえた本堂脇のお池。古く落ち着いた雰囲気の、風情ある
古刹でした。

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もうすでに日が傾きかけ、参拝する人もまばらな本堂で、ひとりお灯明を上げました。

遥か遠く、宗旨も違う土佐の竹林寺から、死に目に会えなかった父の冥福を祈りました。

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2007年6月15日 (金)

「40年ぶりの授業参観。」

今日は、「高知市文化プラザかるぽーと」の小ホールでのコンサート。
共演者はタブラ奏者、吉見征樹さんです。

飛行機で高知入りした吉見さんと二人、お昼過ぎから
ゆっくりサウンドチェック。
そして楽屋で開演時間を待ちます。

その時に吉見さんに、昨夜父が逝ったことを話しました。
吉見さんは私の父と面識がありました。二人でしみじみと、お互いの
父親の話しをしました。

私も芸人。
芸人は親の死に目にも会えないと前から覚悟はしていましたが、
昨夜はホテルに私一人。誰にも言えない心の苦しさ。さすがに眠れない
一夜を過ごしました。でも吉見さんと父の話しをしたことで、私の心は
だいぶ楽になりました。

さあそれでは仕度をしようと、何気なく客席を映すモニター画面を
見ますと。客席の最前列にポツンと一人だけ、年配の男性が座っています。
『こんな早い時間からもう来場して下さっているお客様が。』と思いました。
でも『あれ?まだ開場はしていないはず。へんだなぁ。』と思い、モニター
画面をもう一度見直すと、誰も客席には映っていませんでした。
『もしかしたらお父さんが?』そう思ったとたん、私の沈みきった気持ちが、
不思議にウキウキして来たのです。

『お父さんが見に来てくれた!』まるで小学校の授業参観にお父さんが
来てくれた時のように。
演奏前に、私の心は救われました。吉見さんと、そして私の父に。
演奏が始まり、最初にモニター画面に映っていた年配の男性が座っていた
席を、私は舞台からさがしていました。

最前列の他の席はみな埋まっているのに、その席だけは、コンサートが
終わるまで空席のままでした。

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2007年6月14日 (木)

「土佐へ」

今日は土佐の高知に行きます。
行路は、列車で東海道、備讃瀬戸大橋、そして讃岐から
祖谷挟をたどり土佐の高知に至ります。
岡山駅で新幹線を降り、高知行きの特急「南風」号に乗り換えます。
「なんぷう」号という、なんといい響きでしょう。

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「南国土佐に運んでくれる南の風」。

南風号は岡山駅を出発してしばらくすると、瀬戸大橋を渡ります。
私の乗った南の風は低空飛行する飛行機のように、瀬戸内海の
島々の上を飛んで行きます。
金比羅さんで有名な琴平駅を出ると、山間地帯へと進んで行きます。
やがて祖谷渓谷にさしかかり、南風号は祖谷挟を望む切り立った崖の
上を、渓谷に沿って右に左に走ります。
車窓から下を見ると深い渓谷、上を見ると高い山。
山々は渓谷に迫り、頂きははるかに高く、首が痛くなりそうです。

祖谷渓谷を過ぎると、列車はまるで細い山道をたどるように、
左右が草木の山林の間をゆっくりと登って行きます。
登りきったところで、古くて小さな煉瓦作りのトンネルに入りました。
すると、さぁーと草木が湿ったようなかおりの風が車内に吹き込んで
きました。車内が深い緑に染まったようでした。
真っ暗なトンネル中を、ごぉーという風の音をたてて突き進んで行きます。
それは長い長い時間でした。
車内の草木の湿ったかおりはますます強まり、まるでタイムトンネルに
入ってしまい、古い時代の昔の空気が入って来たような、そんな気が
しました。
御免(ごめん)という、変わった名前の駅を出ると、まもなく高知駅に
到着です。
明日からの演奏会を主催して下さるご夫婦が、高知駅までお迎えに
来て下さいました。

夜の食事を終えホテルの部屋に帰ると、「父死す。」との報が届きました。

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2007年4月18日 (水)

「わくわく。」

今日は、唄手であり太鼓の奏者でもある木津茂理さんと、仙台での演奏です。
二人での演奏は久方ぶりのことです。
初めて茂理さんと演奏をご一緒させていただいてから、もう何年になるのでしょうか。

昨夜は仙台に前日入りをいたしまして、茂理さんと事務所の方と三人で
楽しい食事の時を過ごしました。茂理さんはなんと言ってもかっこいい。
センスが良い着物を粋に着こなし、袖をひるがえし太鼓を叩きながら
唄う唄の、なんと心地の良いことか。
自然体というか無理が無いというか。

どんな人に、どんなジャンルの人に聞かせても、受け入れられる演奏だと思うのです。
また茂理さんのファンに女性が多いことも、素晴らしいと思います。

今日は朝からサウンドチェックをしてから、食事と休憩をしていました。
今は本番一時間前です。
茂理さんも着替えとお化粧のためにカーテンの向こうに入りました。

さあ、今日もどんな演奏になるのか。わくわくしてきました。

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2007年3月11日 (日)

「不思議な朝の風景。」

昨夜遅くにチェックインした広島の空港ホテル。
朝、目を覚まし窓のカーテンを開けると、窓の外には思っても
みなかった風景がひろがっていました。
ホテルの前には、池あり林あり築山ありの英国式のような
広々とした庭園があったのでした。

通芳を電話で起こし、ロビー階のレストランへ。
庭園を眺められる大きな窓際の席で朝食。
窓の外には空の青と、それに映える庭園の明るい緑がいっぱいに
ひろがっていました。するとそこに突然、空から白い物がゆっくりと、
はらはらと音もなく降ってきました。
青空から白い雪が。この不思議な光景に、二人無言でみとれていました。
その間、音も時間も止まってしまったように感じました。

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「父の気持ち。」

お昼に広島空港を飛び立った飛行機は無事羽田空港に着き、
そのまま弘前に行く通芳を見送る為に東京駅に行きました。
東京駅地下街を、通芳の弁当を探して彷徨する。
通芳はなかなか買うものが決まらない。結局イタリアンレストランの
テイクアウトと、チャイニーズレストランの杏仁豆腐を買ってあげる。

通芳は小さい声で「ありがとう。」。

ホームに行くと、もうすでに通芳の乗る列車は入っていて、
そのまま乗り込む。通芳の席はC席、三列座席の通路側。
通芳はお弁当のイタリアン料理と杏仁豆腐を膝の上にのせている。
窓際のA席には若い男の人が座っている。
今日は満席のこの列車、通芳の隣のB席の乗客はどんな人が
来るのだろうか。通芳は列車がどのあたりに行ったら、イタリアン
料理と杏仁豆腐を食べるのだろうか。満席の狭い普通車の座席で、
この豪勢なデザート付きのお弁当は食べづらいんじゃないだろうか。
などと、私はいろんなことを考えていました。

発車まであと5分。

通芳は、私がホームにいることがわかっているのかいないのか、
私の方をちらっとも見ない。やがて発車時間。
発車ベルが鳴りドアが閉まり、列車は動きはじめました。
私の視界から通芳が消えてしまう直前、通芳はほんの少し私を見た。

『なーんだ。通芳は私がここにいたのを知っていたのか。』。

吸い込まれて行くように遠ざかる、列車の赤いテールランプ。
その時、すごい勢いで過去の情景が甦りました。
セピア色の上野駅のホーム。列車の窓の外に佇む父。
一人列車に乗っている小学校三年の私。私の初めての一人旅。
私の膝の上には、父の買ってくれたお弁当とみかん。
それを何か心配そうに見るている父。
私は、隣や前の席の人達に気恥ずかしくて、父の方を少しも見なかった。
列車が動き出した時に、私は父を見た。
その時の父の顔は、切ないような哀しいような、なんとも言えないような
顔をしていました。

私はその時、『なんでお父さんはそんな顔をするんだろうか。』と、思っていました。

40年経った今、その時の父の気持ちが初めてわかったような、気がしたのでした。

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2007年3月10日 (土)

「広島県世羅町」

今日は広島県、世羅町のせらにしタウンセンターでの演奏です。
久方ぶりに通芳と二人の演奏会です。広島空港をおりましたらお迎えを受けて
車で約50分、山中のアップダウンを繰り返す山道を行きます。

私は30年近く前からの花粉症で、この季節はマスクを離せません。
車の外を見れば、杉や松の木がそれこそ山を覆うようにはえています。
一瞬「うわぁ。」と思いましたが、そういえば飛行機を降りてからくしゃみを
一度もしません。不思議不思議。
やはり花粉症には、花粉だけが悪いのではなく。花粉と、排気ガスなどの
有害物質が結びついて花粉症を引き起こすのだという話しは本当なのかなぁ、
と思いました。

山中の道はやがて山里という風景になりました。田や畑の中に、茅葺き屋根の
家が点在しています。日本の原風景という風情です。空港から一度も町を通らず
にそのまま、せらにしタウンセンターに着きました。

ホールは新しく近代的で素晴らしいホールでしたが、お客様方は素朴でとても
純真な感じがしました。演奏中も、ほんの少しの演奏の起伏に対しても
「わぁー!」というような反応をして下さる。曲間の話しにも暖かい拍手をいただける。
演奏している私どもの方が、心が暖かいもので満たされて行く、という気が致しました。

終演後は空港ホテルまで車で送っていただきました。帰りの山道は月も星も無い、
真っ暗な魑魅魍魎の出現しそうな風情。ヘッドライトにさっと小さな影がよぎります。
月の無い晩には、よく狸が車にひかれるそうです。
夜はお腹がすいて通芳と二人、ホテルのお部屋でコンビニで買った物を食べました。
通芳はむしゃむしゃと、食べること食べること。

もーちょっと、腹も身の内ということも考えたらいいのに。

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2007年2月25日 (日)

「帰り道」

演奏地からの帰り道は、なかなか楽しいものです。
昨日松山市での演奏を終え、今日は松山から東京まで帰ります。
松山駅の名物弁当、「醤油めし」を購入して、特急しおかぜ号に乗りました。

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私の乗る車両は先頭車、そして一番前の席。

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運転席を通して前の景色もよく見えます。ワクワク。
このしおかぜ号は振り子電車と言って、カーブにさしかかると
電車の車体がカーブの内側に傾きます。それによってカーブでも、
普通の車体の電車よりもスピードを落とさずに走ることが出来ます。
松山駅を出てしばらくすると、左手に瀬戸内海が見えてきます。

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天気も良くて、青く凪いだ海に遠い島も近い島も浮かんで見えます。
海が見えなくなると、しおかぜ号は山の中や田んぼの中を走ります。
細々とした単線の線路は田んぼと同じ高さにあり、田んぼと線路を
隔てる柵も何も無くて、まるで田んぼの中の畦道のような線路。
その線路のすぐ隣の田んぼでは、おじいさんが農作業をしていたり
します。そこを最高時速130キロで突っ走ります。
そしてカーブにさしかかると、早いスピードのまま車体をぐぐっッと
傾けながらカーブに突っ込みます。
線路のすぐそばに建っている家の軒先を、ギリギリにかすめるように
走り抜けたりします。
危なっかしくて、はらはらドキドキ。スリル満点。
しおかぜ号はまるでジェットコースターみたいです。

やがて多度津、丸亀と、大きな街並みに入ると線路も複線高架になり、
しおかぜ号のジェットコースターは終わりです。
宇多津駅を出ると瀬戸大橋を渡ります。瀬戸内海の空を低空飛行する
みたいな眺め。瀬戸内海を一望です。まもなく岡山駅に到着。
これでしおかぜ号の旅は終わりです。

あとは乗り慣れた新幹線で、居眠りしながら帰りましょう。

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2007年2月22日 (木)

「松山に来ました。」

松山に来ました。
今日は飛行機ではなく、私の好きな鉄道で東京から来たので、私はご機嫌です。

ホテルに入った後、主催の方々とホテルでお食事をしました。
私の泊めていただくホテルは道後温泉の中にあり、なかなか洒落たホテルです。
主催の方々と二年ぶりにお会いして、フランス料理とワインで盛り上がりました。

深夜に一人で水を買いに、道後温泉本館のそばのコンビニに行きました。
道後温泉本館はライトアップされて、とても幻想的でした。

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道後温泉本館は明治時代の建造、木造三層楼。国の重要文化財に
指定されています。
裸で入れる唯一の重要文化財と、言われているそうです。
私はこの幻想的な雰囲気の中で、一人でひたっていますと。
年配の女性が、「どこから来たの?」とか、「これから何処へ行くの?」
とか聞いてきます。
私は「千葉から来ました。」とか、「これからホテルに帰ります。」
とか答えました。
少し歩くと、また別の年配の女性が、「もうホテル帰っちゃうの?」と
聞いてきます。(道後温泉のあたりには、なんて親切な人が多いん
だろうか。)と、思いました。
ホテルに帰り、この事をフロントの方に言いますと。微笑しながら、
「それは風俗の客引きのおばさんです。」とおっしゃいました。

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2007年1月 1日 (月)

「謹賀新年」

明けましておめでとうございます。
謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
昨年に引き続きのご贔屓を、私 こと佐藤通弘に賜わりますことを。
また、「時々日記」のご愛読をいただきますことを、御願い申し上げます。

静かなお正月、私は好きです。

正月はゆったりゆっくり、心静かに過ごす。
正月には怒らない、泣かない、争わない。
もしそんなことをしたら、今年一年中怒ったり泣いたり、争っていなきゃならない。
という日本の古来からの考え方が好きです。

だからお正月は人の往来も、車の走り方もゆったりゆっくり。歳末のあわただしい
雰囲気が嘘のよう。お正月にはきちんとした服装をして、挨拶周りや神社仏閣に
行きます。きちんと服装をすると、気持ちまで違ってきます。
私は中折帽子をかぶり、スーツを着ると。なんか背筋がスーっと伸びてきます。
そしてきちんとしたことがしたくなります。
日本中みんなニコニコいい人になります。だからお正月は交通事故も犯罪も
少なくなります。

こんないいお正月、一年中あればいいのに。そう思います。

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2006年11月30日 (木)

「夢のホテル」

今夜限りで、溜池山王にあるキャピトル東急ホテルは閉館します。

このホテルは、私の大好きなホテルでした。私が初めてこのホテルに
泊まったのは約二十年前、近くにあるサントリーホールでの演奏の時に、
主催の方に泊めていただいたのが最初でした。
ドアマンからベルボーイ、フロント、ハウスキーパーにいたる全てのホテル
マンの質の高さシックでクラシックな内装。品のいい落ち着いた客層
いっぺんに私はこのホテルに魅了されました。

それ以来、このホテルで泊まったり食事をすることが、私の私に対する
最高のご褒美になりました。私の誕生会を、メインレストランのけやきグ
リルで何回も致しました。スイートルームで、仲間を集めてクリスマスパ
ーティをしたりもしました。レストランを予約すれば、私の好きな席をとって
おいてくれます。そして私が何も言わずとも、私の好きなお酒や料理が
出て来るのです。
宿泊予約の電話を入れれば、私のいつも泊まるお部屋を用意しておい
てくれます。夜、ドアの前に靴を出しておけば、翌朝きれいに磨かれて、
朝食のルームサービスとともに持って来てくれます。
その磨き方の程のよいこと。塗った靴クリームがズボンの裾に着かず、
また靴の光沢も出るように、多からず少なからず。正に職人技です。

昨夜、私は夢をみました。夢の中でキャピトル東急ホテルのレストランに
来ているのです。そしていつもの席で、いつもの料理やお酒の前で、
「とうとう明日で終わりですね」。と、私は寂しく言うのです。
するとウェイターの方が、「このホテルは無くなったりは致しません。これ
からもずっと営業致します。佐藤様は夢でもごらんになったのではないの
ですか?」。と言うのです。
すると私は「そうか、ホテルはなくならないんだ。よかった、よかった。」と、
泣いて喜こぶのです。

その時にふと、目が覚めました。

しばらく、夢とうつつのはざまをさまよってから、やがて『キャピトル東急ホ
テルは無くならない、というのが夢だったんだ。やはりホテルは無くなって
しまうんだ。』ということがわかりました。

もうこれからは、夢の中でしかこのホテルに行くことが出来ないのだと。
私は寂しくて、しばらく眠ることができませんでした。

キャピトル東急ホテルは、私の夢のような、ホテルでした。

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2006年11月25日 (土)

「富山地方鉄道」

今日は富山県魚津市の酒蔵での演奏です。
今まで時刻表だけでしか見たことがない、富山地方鉄道という
富山県の私鉄に私は前から乗ってみたかったのです。
富山駅にお迎えが来て下さることになっていますので、JRの特急を
魚津駅で降りて、隣接する新魚津駅から富山駅まで富山地方鉄道
に乗って行くことにしました。

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JRから乗り換えますと、富山地方鉄道の駅は閑散としていて、大変に
お年を召した駅員さんがひとり、のんびりと音量を大きくしたテレビを
見ていました。私も大きな声で電車の時刻を訪ねました。

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新魚津駅から乗るお客さんはお年よりばかり四人。やがて二両編成
の古い電車が、車体を左右にゆらゆら揺らしながら駅に入ってきました。
車掌さんはいない、運転士さんだけのワンマン運転。運転席の後ろに
はバスと同じ、駅ごとに変わる運賃表と運賃箱があります。
田園風景の景色の中を、のんびり走ります。単線の線路がまるで畦道
のように見えます。

駅ごとにお客さんが降りてゆき、とうとう私以外のお客は三人になって
しまいました。三人のお客さんは皆おばあさん。他にあいている席は
たくさんあるのに、仲良くひとつのボックス席のいます。ひとりひとりの
おばあさんは、皆違う駅から乗って来ました。そしてまた違う駅で降りて
行くのです。それなのに電車に乗って来ると、挨拶も無しに一緒におせ
んべを食べたり、お喋りをしたり。
そして「じゃ、行ってらっしゃい。」というように電車を降りて行くんです。
そう、この電車に乗っている私以外の人達は、皆知り合いなんです。
昔、瀬戸内海の小さな家島という島に向かう船でもやはりこのように、
乗客は私以外皆知り合い、ということがありました。でも電車では初め
てのことでした。

今日は北陸地方の11月にしては珍しい、とてもいいお天気。
遠い立山連邦の雪の白さと、澄みきった青い空がとてもきれいです。
田んぼの畦道を歩くように進む電車に揺られて行く。

この時間が、とても貴重なものに思えました。

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2006年11月 5日 (日)

「いわき弁」

今日はいわき市の公立高校での、学校公演。
栃木県大平町から昨夜のうちにいわき市に入り、今朝は早くから学校の
体育館でサウンドチェックです。

今日は、おだやかないいお天気。教室から、かすかに生徒さん達の歌声が
聞こえてきたりします。生徒さん達は、純朴そうな感じの若者達です。
なにか先生と生徒の関係がほのぼのとしていて、とてもいい感じがしました。
この学校は進学校ではないからのんびりしているんだそうです。

この高校の校長先生とは、十数年来のお付き合いをさせていただいております。
話しは変わりますが、校長先生は、映画「フラガール」を見て、映画の中で七回
も泣けたそうです。

そのお話しを伺い、私も「フラガール」を見に行きました。
七回は泣きませんでしたが、私もやはり泣けました。一心に、芸に精進していく
純粋さが、やはり人の心を揺さぶるのでしょうか。
結局、私は二度もこの映画を映画館で見てしまいました。

「フラガール」は、常磐炭坑閉山に向けて、炭坑夫達がリストラされていく中で。
その救済策の一つとして有り余る常磐の温泉を利用して、「常磐ハワイアンセ
ンター」を作る時のお話しです。
映画の中で、ふんだんに福島弁、いわき弁が使われています。
そのいわき弁が、ますます校長先生の涙を誘ったのでしょうか?
私にも主人公の女子高生の方言が、とても好ましく、可愛くうつりました。

私は密かに、この学校公演での生徒さん達とのやりとりの中で、生徒さん達の
いわき弁が聞けることを楽しみにしていたのですが、やはり生徒さん達は方言を
話してくれませんでした。
しかしこの後の打ち上げで、地元の方々のいわき弁を、それこそふんだんに聞く
ことができました。皆さんのお話しを聞いているだけで、なんかほのぼのと楽しく
なってしまいます。

私は福島弁、大好きです。

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2006年11月 4日 (土)

「大平町親子コンサート」

今日は栃木県おおひら町民ホールでのコンサートです。
通芳と二人での出演は、七月以来久しぶりのことです。

大平町は東北新幹線の小山駅から、お迎えの車で約20分。
小山の町を出ると、見渡す限りの広い平野が広がります。
なるほど、これは大平町です。

開演前、私がどんちょうの裏でスタンバイをしておりますと、町の助役さんが
どんちょう前でご挨拶をなさっております。
そのご挨拶の中で、「佐藤通弘さんは、映画『アダン』の音楽に参加なさって
おります。映画『アダン』は、皆様ご存じ当大平町出身の画家、田中一村の
一生を描いた作品であります。当大平町でもロケが行われ、映画の中に出
てくる古い家は、大平町の○○さんの家です。・・・」

またまた私は驚きました
私は大平町には初めて来させていただいたはずなのですが、なぜか大平町
という町を聞いたことがあるなぁ、と感じていました。

本当に、縁とは不思議なものです。

明日はいわき市の高校での、学校公演です。

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2006年11月 3日 (金)

「大安寺柳の蝉の声」

今日は岐阜県の大安寺という、古いお寺でコンサートです。

出演者は私と尺八の田辺頌山さん、太鼓唄の木津茂理さん。
それにすばらしい絵と言葉をお書きになります、作家のひろはまかずとし氏です。

今回のコンサートは、ひろはまかずとし先生のファンの方々によって実現しました。
いつもの私達三人の演奏に加え、ひろはま先生の創作実演と演奏とのコラボレー
ションが行われました。
大安寺は大変古い由緒あるお寺だそうです。私達の控え室にあてて下さったお部
屋には、昔、和尚様が篭ったという、狭い隠れ部屋のような部屋がありました。
茂理さんは、その部屋に篭って着替えをしていました。

私のソロ演奏の後に、木津茂理さんが田名部お島コ節を唄いました。

♪「田名部お島コのー、音頭とる者はー。大安寺柳の蝉の声ー。」

大安寺?私は驚きました。
少し背筋がぞわっとしました。
田名部お島コ節の歌詞の中に、大安寺があったのです。

明日は栃木県大平町、通芳と演奏です。

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2006年11月 2日 (木)

「小倉一郎さんの結婚パーティ」

今夜は小倉一郎さんの結婚披露パーティーです。

ホテルの宴会場に、280名もの人達が小倉さんの結婚をお祝いするために
集まりました。私はパーティの中で三味線を演奏させていただくことになって
いましたので、開宴前に会場にまいりましたが、早くも別室では記者会見が
行われておりました。会場の中にも取材のカメラがたくさん開宴を待っていま
す。さすが、小倉さんの長年のキャリアと注目度を感じさせます。

開宴いたしますと、セレモニー的な催しはほとんどなくて、もう和気あいあい
としたパーティーという雰囲気のままパーティーは進行いたしました。
私のような音楽家達は演奏をして、俳優やタレントの方々はご挨拶をなさい
ました。小倉さんの交友の広さには、大変感心を致しました。

もし私が今、結婚披露パーティをしたとしても、これだけの人数とこれだけの
そうそうたる名士が集まるだろうか?と、考えましたら、これは大変なことだと
思いました。小倉さんご夫妻の幸せいっぱいのオーラをいただき、私も
楽しく演奏をさせていただきました。

明日は岐阜に行きます。

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2006年9月24日 (日)

「大通寺での演奏会」

昨日は滋賀県長浜の大通寺という、戦国時代からの古い大きなお寺で演奏させていただきました。
演奏させていただいたのは、そのお寺の大広間。伏見城の大広間を移築したものだそうです。大広間はとても広くて、三百人は楽に入る広さです。まるで黒澤監督の時代劇の大掛りなセットを見るようです。その大広間にいると、上座の広くて高い所に殿様が端然と座り、広間には何百人という家来がひれ伏している。そんな情景が浮かんでくるようでした。

一緒に演奏したのは、私の妹弟子の村富満世さん、パーカッション、尺八、マリンバなどを奏でる京都住まいのアメリカ人ロビン ロイドさん。このお仕事は村富さんからいただいたものです。妹弟子の村富さんからお仕事をいただくなんて、なんか私はとても嬉しく思いました。芸の上では師匠は私の親。村富さんは妹です。親が亡くなっても、兄弟が仲良く助けあっているのは、きっと天国の師匠も喜んで下さっているだろうな、と思いました。


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2006年9月13日 (水)

「放射線検査」

今日は国立病院で放射線検査に行きました。

オーストラリアで、演奏の時に歯をくいしばり過ぎて、歯が悪くなってしまったのです。
受付から案内されて放射線科の待合室に行きました。壁に大きく「MRI検査について。」と書いてあります。読んでみますと、「この検査は狭い筒の中に入って受けます。撮影の時には大きな振動と音がします。検査は約30分かかります。」

私は閉所恐怖症です。(こりゃもう、ダメだ。帰ろう。)と思いました。ところが、ふと反対側の壁を見ると、「CT検査」と書いてあります。(あ、そうだ。そういえば歯医者さんはCT検査と言っていたなぁ。)と、思いだしました。こちらは「頭部だけの撮影です。」と書いてあるので一安心。まもなく技師の方に呼ばれCT検査室に。たしかに大きな機械に入るのは頭部だけですが、可動式のベッドに体をベルトで縛って、おでこと顎にもテープを貼り固定します。「頭を動かさないで下さい。つばも飲み込まないで下さい。目を閉じて開けないで下さい。」と技師の方が言いました。やがてベッドが前後左右に動いて位置が決まると、すごい音と振動がして来ました。何が起こったのかと思わず目を開けてしまったら、頭の周りの機械の筒が、すごい速さでぐるぐる回っています。(も、もうダメだ。もう、やめてくれー!って、言おう。もう、言おう。)とずっと心の中で言い続けていました。

私にとって長い長い10分間が終わりました。病院の外に出ると、冷や汗に濡れた私の首筋を、秋の風が心地良く吹いてゆきます。

「あー。自由ってなんて素晴らしいんだ!」つくづく思いました。

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2006年9月 5日 (火)

「英国総督邸にて」

12日間のオーストラリア演奏旅行、おかげ様にて、無事に終えて帰国することができました。
今回の演奏旅行もまた、私にとって忘れることのできない旅のひとつとなりました。

その中で印象に残ったのは、英国総督邸にての演奏会でした。
なん百年も前にたてられたという、重厚な煉瓦造りの総督邸は。見晴らしの良い丘の上で、芝生と咲き誇る花の中にありました。私達が大きな車寄せに到着すると、執事がにこやかに出迎えて下さいました。総督邸は建物もお庭もとてもひろく、二階や三階のテラスはまるで映画のセットに出てくる、英国のお屋敷そのものです。演奏者もスタッフも国際交流基金の方々も、みんなで写真を撮りました。私達の演奏は邸内のホールでさせていただきました。お客様は120名くらい。日本の総領事夫妻をはじめとする在ブリスベンの日本の方々と、英国総督をはじめとした英国、オーストラリアの 日豪交流の関係する方々でした。演奏が終わると総督が拍手をしながら立ち上がって下さり、それに続くように他のお客様も立ち上がって下さいました。

演奏の後には、大きなエリザベス女王の肖像画のあるお部屋に招かれ、飲み物をいただきながら総督閣下と懇談させていただきました。暖かいおもてなしの心遣いに、私達は皆感激いたしました。演奏家をしていてよかったなぁ、と思いました。

オーストラリアはまだ形式は英国の植民地です。ですから英国から派遣された英国の総督がいるわけです。そのへんの事情を現地の方に伺ってみました。オーストラリアの現状はもうほとんど独立国です。しかし昔からの大英帝国の一国という形は残している。このままの形を残して大英帝国のなかの一国でいるか、それとも形式的にも完全に独立をするのか、国民投票が行われたそうです。すると僅差で大英帝国の一国にとどまることになったそうです。ただ、むかしながらに英国王室を敬愛するお年よりのような人々がこの先減って、また次回国民投票が行われた時には独立になる可能性が高いそうです。

私はとても感心しました。一つは、国の大きな分かれ道を決める時に、国民投票をして国民に直接に決めさせたこと。そして僅差であったにもかかわらず国民投票の後は整然とその決定に従ったこと。 またもう一つは、少しの戦争も紛争もせずに、ひとりの犠牲者も出さずに独立することが出来るということ。なんて素晴らしいことなんだろう、と思いました。戦争や紛争を起こして、憎しみの連鎖を繰り返すよりも。お互いの尊敬や親しみを持ったまま、お互いを認めあうことが出来る。これは百万の軍隊を持つより力強く国を守ることではないだろうか。と思いました。

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2006年8月22日 (火)

キャンベラより

皆さまこんにちは。
書こう書こうと思いながらなかなか書けずにスイマセン。
時々日記が気まぐれ日記になりそうです。(苦笑)

今はキャンベラにおります。

15日に日本を発ち、シドニーで2公演とラジオ出演、キャンベラで
2公演とラジオ出演をしました。
シドニーは大都会で暖かく、キャンベラは田舎町で朝晩は寒く、と
両極端な2都市でしたがお客さまもあたたかく迎えてくれて無事に
終えることが出来ました。

今日はブリスベンに移動です。
コンサートは1回ですが総督邸での演奏もあるので残すところ、あと
2回の演奏となりました。
ブリスベンでは時間があるのでゴールドコーストにも行きたいと思っ
ております。

では

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2006年7月24日 (月)

「長いお付きあい」

一昨日から私は福島県に来ています。
一昨日は郡山の商工会議所会館で演奏。昨夜はいわき市音楽館で
演奏しました。この催しを主催していますのは「縄文ソウルの会」という、
いわき市の高校教師である新妻先生を中心とした会員の皆様です。

この会は1月と7月の年二回行われ。今回は第39回、20年目の演奏会
でありました。毎回、他では見ることの出来ないコラボレーションや、
異色のアーティストを見せてくれます。
私はこの会の、三上寛さんに続いて二番目の最多出演者ではないか
と思います。

新妻先生にお会いしたのは、もう30年近くも前のことです。
新妻先生が新聞に載った私を見て、わざわざ東京まで会いに来て下さ
ったのです。新宿花園神社のそばの飲み屋で、お酒を酌みかわしました。
すぐ隣で、今は亡きたこ八郎さんが酔い潰れていました。
それから今まで、何回福島に呼んでいただいたことか。最初は私も20代
でありました。縄文ソウルの会の方々もやはり、その頃は若かった方も
今はそれなりにお年を召されて。
私はいつもこちらに来るたびに、演奏やお酒を飲むのに夢中で、何も考え
てはいませんでしたが。思えば不思議なものです。
会の皆さんといろんな所で演奏会をして、打ち上げ会で飲んで。
それを繰り返しいるうちにいつのまにか時が過ぎて、お互い年齢を重ねて
いました。今思えば、何か浦島太郎のような感じがします。

前に私は、演奏会は一期一会と書きましたが、この会ははそうではなく。
長い長い年月、会の方々と共に人生の旅を続けているような感覚がする
のです。

来年は「縄文ソウルの会」21年目、40回を迎えます。
新妻先生をはじめとした縄文ソウルの会の皆様のご健康と、会のさらなる
発展を、心よりお祈りする次第であります。

通弘

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2006年7月 7日 (金)

「さすらいの街」

私は今、札幌駅の駅ビルの中の小さな喫茶店にいます。30分後に出発する
夜行列車で上野に向かいます。窓の外は、買い物客が次から次へと通り過
ぎてゆきます。
とある街でひとり、長くもなく短くもない時間をぼんやり過ごしている時に、ふと
湧きあがる不思議な感覚があります。
「私は何処から来て何処に行くのだろうか。私はいったい誰なんだろう。ここは
何処なんだろうか。」と、なにか訳がわからない感覚におそわれるのです。

昔、大阪に10日あまり滞在していた時、昼間あいている時間に、ぶらぶら大阪
駅の近くを徘徊しました。大阪駅の駅ビルに中をただ意味もなく歩いていると、
階段の途中に小さな扉があります。その扉を中へ入って行くと、狭い通路の両
側に、昭和時代を思わせるような小さな縄のれんの飲み屋や、古い喫茶店など
があります。そしてさらに奥に行くと通路はますます狭くなり、人がひとりやっと
歩けるぐらいの幅になりました。
このまま行けば、「もう二度とこの迷路のような所から抜け出られなくなってしま
うのではないか。」と思いながらも、さらに進むと。やがてまた小さな扉があり、
そこを出ると突然まぶしいくらい広い、駅のコンコースに出るのでした。

とても不思議な場所でした。

まるで筒井康隆のSFの世界です。

私はここを密かに「レトロな未来都市」と呼んでいました。大阪に滞在するたび、
私はこの「レトロな未来都市」をひとり徘徊するのを楽しみにしていました。
ここで私はやはり、ひとり不思議な感覚におそわれるのでした。
根無し草のようにふわふわ漂うような漂泊感。「私は何処から来て何処に行くの
だろうか。私はいったい誰なんだろう。ここは何処なんだろうか。」。

海外演奏旅行の時、ひとりヨーロッパの見知らぬ街をさまよっている時にも、この
ような感覚におそわれることがあります。この不思議な漂泊感。これもまたひとつ
の旅なのでしょうか。

さて、そろそろ夜行列車がホームに入ってくる時間です。重い荷物と三味線を持っ
て、改札口に向かおうと思います。

通弘

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2006年7月 5日 (水)

「大いなる北海道」

一昨日から札幌に来ています。
空港降り立ったとたんに、爽やかな風がサァ~と吹いて。なんと北海道の空気の
清浄なこと。今までいた九州、東京に比べて気温も低いのですが、湿度も低く、
からっと晴れてその気持ちのいいこと。
私の体調も、飛行機を降りたとたんに良くなったような気がしました。

昨日は札幌の郊外にある、西野神社で演奏させていただきました。
作家の植田莫先生が中心になり演奏会を企画して下さいました。植田莫先生は
私のCD「月も凍る夜に」と「東北ロマン」のジャケット絵をお書きになった先生です。

そして今日の会場は、札幌の郊外江別にある、米村牧場のゲストハウスが会場です。
どこまでも続く広大な牧草地の中に米村牧場があります。野幌駅前のコーヒー店の
ご主人と奥さま。米村牧場のご夫妻。地元の婦人会の方々。皆さんで演奏会を
運営して下さいました。どちらも会場いっぱいのお客様。お客様には窮屈な思いを
させてしまいました。でもどのお客様も、とっても暖かいんです。
演奏しているとほのぼのとして、心がぽかぽかしてくるのです。

終演後、皆さんの持ちよりのご馳走で小宴会です。
コーヒー店のご主人は入れたてのコーヒーを。米村さんご夫妻は、しぼりたての暖かい
牛乳と手作りケーキ。他の牧場の奥様は、自分の牧場の牛乳で作ったヨーグルト。
婦人会の方々は今日の夕方にもいだ、とりたてのトマト。などなど。
演奏から打ち上げ会まで、本当に暖かい会でした。
皆さんと、いろいろなお話しをいたしました。北海道人の気質を、ある方が「普段は何気
無く、お互いに深く入り込むこともなく。詮索することもなく。楽しくお付き合いをしてい
る。しかしもし人が困って、助けてほしいことが起こった時には、みんなでさぁーと来て
黙って助けてくれる。それが北海道人の気質です。」とおっしゃっていました。

雄大なる大地。
豊かな食物。
おおらかで、いたわり合い助け合う気質。

大いなる北海道。

200607051542000

なんか北海道に、移り住みたくなりました。

通弘 http://www.tsugaru-michihiro.com

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2006年7月 2日 (日)

「一期一会」

今日は九州久留米から電車で20分、大刀洗町のドリームホールで演奏です。
前日久留米のホテルに泊まり、西鉄電車に乗り大刀洗町に向かいます。
途中単線の線路を二両編成の電車は、ゆっくりゆっくり左右に揺れながら、平坦な
田園の中を行きます。

ドリームホールでは満員のお客様。
今日は大刀洗町の、人権問題についてのイベントのひとつとしての公演です。

私と通芳の二人で2時間20分、お話しと演奏をさせていただきました。
「人に非ず」とされていた、昔の津軽の芸人達の悲哀を。私の経験と先輩達から
聞いたことから、お話しをいたしました。国や思想信条、宗教や職業人種、
肌の色の違いなどから起こる差別や偏見が、世界中から無くなりますように、
ただただ祈るばかりです。

今日のような、地方の県や市町村のお仕事のほとんどは、一度行けば一度限りです。
まれに二度三度と呼んで下さる所もありますが。地方公共団体の公共性から、同じ人は二度とは呼べないのです。だから、一期一会なのです。
今日、駅まで迎えに来て下さった町の職員の方も、楽屋に挨拶に来て下さった町長さんも。演奏させていただいたこのホールも、揺れながら乗った電車も、みんな一期一会。
もう二度と一生会えないかもしれないのです。

そんなことを考えていると、縁というものは不思議で、そして大切な、いとおしいもののように思えてきました。

終演後、福岡に向かう西鉄電車に乗りました。
福岡に着くまでの間、窓の外を流れ行く風景を目に焼き付けるように、見つめていました。
明日は札幌に向かいます。

通弘 http://www.tsugaru-michihiro.com

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2006年6月27日 (火)

「目には見えないもの」

 25日の日曜日に私の住まいである酒々井町の新しい会館で、初めて演奏させて
いただきました。私の家から、歩いても15分くらいの「プリミエール酒々井」です。
東京からスタッフの方々が車で迎えに来ていただきましたが、荷物だけ運んでもらい、私は家から歩いて会館までまいりました。自宅から歩いて演奏する会場まで行くなんて、もしかしたら私にとって初めてのことかもしれません。

 かれこれ20年近く前から、私の演奏を観に来て下さるお客様がいらっしゃいます。
主催者より、埼玉県にお住まいの方で入場券を買って下さった方がいる、ということを聞き、もしかしたら私はいつも応援してくださるあのお客様だ!!と直感いたしました。

JR酒々井駅から酒々井町の会館までは歩くと15分以上かかり、しかもなだらかな登り坂になっています。駅前にはタクシーはおりません。お年を召したあの方にとって、駅から会館まで歩くことは、とてもきついと思いました。しかし迎えに行くとしても、酒々井に来るのにはJR線と京成線の二つの方法があります。また何時の電車でいらっしゃるのかも分かりません。
私は、あの方が今までの長い歳月、いろいろな演奏会場に見に来て下さったこと。四季おりおりの品物やお手紙を送って下さったことなどを、思い出していました。するとなぜか、「JR線の12時23分着の快速電車に乗っていらっしゃる」というような気がしてならなくなってきたのです。
思いきってリハーサルが終わった後、スタッフと一緒に酒々井駅に行ってみました。すると12時23分着の快速電車から、あの方は降りていらしたのです。その時私の心の中が、何か暖かいもので満たされていくような感じがしました。そして私の心は「ありがとうございます。ありがとうございます。」と言っていました。

そして今日の舞台もまた、一生懸命つとめさせていただきました。

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いつも応援してくださる皆さま本当にありがとうございます。

通弘

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2006年6月25日 (日)

「机上の写真」

私の机の上には、一枚の写真があります。
師匠と、師匠の奥さんと私、三人が写っています。

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この写真は師匠が亡くなる一ヶ月ほど前、私が師匠に最後に会った時に撮ったものです。この頃の師匠は薬の副作用のせいか、物忘れすることが多くなっていました。ある兄弟弟子が先生に「おはようございます。」と言っても、先生はきょとんとした顔で、返事もしてくれないこともあったようでした。その兄弟弟子は「先生は私のことも分からなくなっちゃったのかなぁ。」とショックを受けていたようでした。私はこの日、山唄(弘前の師匠のお店、津軽三味線ライブハウス。弘前駅前にあります。)に着くと、真っ先に師匠に挨拶に行きました。すると師匠は急に嬉しそうな顔をされて、「遠いところまでよく来たな。三味線弾け!」と、舞台に顔を向けたのでした。私は津軽小原節を弾かせていただきました。私が弾いている間、師匠は私を真剣な眼差しでじーとw)見つめて、身じろぎひとつしません。その師匠の視線を感じながら三味線を弾いていますと、師匠の目が、メガネごとだんだんだんだん大きくなってきて私に迫ってくるのです。そして目が開けていられないほど、金色にぴかぴか光ってきたのです。私はもう何がなんだかわけが分からなくなってきて、とにかく無我夢中で三味線を弾きました。この時が、私が生きている師匠の前で三味線を弾いた、最後になりました。「舞台で演奏するより、先生の前で演奏する方がよっぽど緊張します。」と、私のお弟子さんはよく私に言います。お弟子さんのその言葉を聞くたび、私はこの時のことを思いだします。

私は忘れることができません。
師匠のきびしくて暖かい、あの大きな大きな、私を見つめる目を。

津軽三味線LIVE HOUSE『山唄』
http://www001.upp.so-net.ne.jp/ryuken/yamauta.html

通弘

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2006年6月18日 (日)

「私はゴゼさん」

昨日から越中富山に来ています。
今、高岡の駅から皆様のお見送りを受けて、帰りの特急に乗ったところです。

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昨夜は大きなお屋敷の広間で演奏させていただきました。集まったお客様は、
そのお宅のご親戚やご友人の方々。まさしくアットホームな演奏会でした。
そのお座敷は三味線の響きが素晴らしく良かったのです。また、集まったお客
様の雰囲気が暖かく、とても穏やかな暖かい気持ちで演奏することができました。

昔、私達の芸の遠い祖先である越後のゴゼさん達は、ひとつの村に着くと、その
村の一番大きなお屋敷に泊めていただき、そこのお座敷に村の人達を集めて演
奏をしていたのだそうです。

そして今日は産婦人科のクリニックで演奏させていただきました。斬新なデザイン
の素敵なクリニックです。今日集まって下さったお客様もまた、暖かい方々でした。
このクリニックも、また三味線の響きがいいのです。ふつう新しい建物や病院などは
つらい響きの所が多いのですが、三味線の音の響きというのは、建物の構造より
聞いて下さるお客様の気持ちで変わるのだろうか?と、思ってしまいました。

通弘

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2006年6月 6日 (火)

私のパソコン

私のパソコンは10年近く前のものです。

実家の父が新しいパソコンを買ったのはいいけれど、全然使うことができず。
接続料金を払うのがもったいないので、接続をやめたパソコンがそのまま放置されている、と聞いたので。
それをもらい受け、私の家で使うことに致しました。
私はもちろんパソコンの接続の仕方などは分かりませんので、いつも私の事務的なお仕事を手伝っていた
だいているパソコン販売会社の方に接続をお願いました。
すると、私の家のパソコンはISDNで、父のパソコンはADSLに繋いであったので、このままでは使えないとのことでした。そして私のパソコンの動作が、大変遅かったということがわかったのでした。
この文を読んでいらっしゃる皆さんはきっとよくおわかりのことと思いますが。ISDNで、しかも古い私のパソコンは、使い始めるまでに3、4分くらい、ひとつ画面が変わるまで1、2分くらいかかるのです。
私は、パソコンというものはそれが普通だと思っていたのでした。結局父のパソコンは、今日は接続することはできません。でもせっかく来て下さったので、使い方を教えていただき航空券を一枚取りました。
私はそれがとても面白かったので、その方が帰った後で、他の航空券もパソコンで取ることにしました。
すると途中で、間違って違う航空券を取ってしまったことに気が付きました。
私はパソコンに向かい、それから約時間。 悪戦苦闘を繰り返しましたが、とうとう正しい航空券に変えることは出来ませんでした。
仕方なくその晩はあきらめ、次の日の朝。航空会社に電話をしました。電話では3分もかからずに正しい航空券に変えることが出来ました。
結局昨夜の四時間の苦労は何だったのか?!四時間もパソコンに接続した電話料金は何だったのか?!
最初から電話で航空券を取れば、約3分で無料で取れたものを・・・。(航空会社には0120の無料電話でかけました。)

デジタル時代が当たり前の世の中、私は、時代遅れの三味線弾きなのでしょうか?!

通弘

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