2008年5月13日 (火)

「父との栃尾又温泉」

久方ぶりに訪れた栃尾又温泉を後にして、今日はバスと
鉄道で帰ります。夜には、帝国ホテルでの演奏があるのです。
栃尾又温泉を出たバスは、山道をくねりながら坂を下って行きます。

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栃尾又温泉には、昨年亡くなった父親と二人で来たことがありました。
十年くらい前だったと思います。父親と一緒に肩を並べてお湯に
浸かりました。お年寄りが多い栃尾又温泉ですが、同じ年寄りでも
私の父は筋肉質で、肩や腕にも筋肉が盛り上がっていて、
『俺のおやじは、まだまだカッコいいな。』と、なんだか誇らしい気持ちに
なりました。
同じ部屋で枕を並べて寝る時には、私に枕カバーのかけ方を教えて
くれました。私に教えるのがとても楽しそうに見えました。
でもそれからが大変。いびきはうるさいし、夜中にトイレに何回も起きて、
ガタガタとうるさくて寝てられません。
『もう二度と二人でなんか来ないぞ!』と、思ったのです。
それから本当に、二人でこの温泉に来ることはありませんでした。
これが父と二人での、最後の旅になりました。

山道をゆっくりと下るバスは、坂道を下りきると、『見返り橋』という橋を
渡ります。昔、近郷近在の農民達が冬の間、ひと月ふた月という長い
湯治をしに栃尾又温泉にやって来ました。
そして湯治を終えて帰る時に、この見返り橋から栃尾又を見返り、
楽しかった湯治に別れを惜しんだそうです。

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バスが見返り橋を渡る時、私もバスの窓から栃尾又を見返りました。
そして父と過ごした栃尾又に、別れを惜しんだのです。

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2008年5月12日 (月)

「久方ぶりの栃尾又温泉」

二年ぶりに栃尾又温泉を訪れました。

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(湯治場の趣栃尾又温泉旧館)

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(栃尾又温泉渓谷の浴舎)

私がこの温泉を初めて訪ねたのは、もう十数年前にもなります。
その年は、サクスホンの坂田明さんのミジンコ空挺楽団のメンバー
として、中国やモンゴルなどの国々を何ヵ月も演奏して回るはず
でした。
ところが一国めの中国北京公演の時に具合が悪くなり、私は
北京公演だけで帰国することになってしまいました。
その頃の私は体の調子が悪いことが多く、「ああ、今日は演奏が
出来た。でも明日は出来るのだろうか?」と、毎回毎回の演奏を
するのがやっとという状態でした。
この途中帰国という最悪の事態に、坂田さんや他のメンバーの
皆さんに対して申し訳ないという気持ちと、音楽家としてこんな体で
やっていけるのかと、体の具合もさることながら気持ちがとても
落ち込んでしまいました。

帰国してそのまま家で落ち込んでいるよりも、一人でどこかに行こうと
思いました。その時思い出したのがこの栃尾又温泉でした。
以前より、尺八奏者の木津竹嶺先生から栃尾又温泉の素晴らしさを
伺っておりました。
栃尾又温泉は日本でも有数のラジウム温泉です。ラジウムから出る
放射線は、体の細胞を刺激し活性化していきます。
だからお湯に入らなくても、この土地に来るだけでも体が良くなるんだと、
竹嶺先生がよくおっしゃっていました。

私は一人で一週間、この栃尾又温泉に滞在しました。
毎日毎日、午前、午後、夜と、温泉に浸かりました。湯温はほぼ体温と
同じ、お湯に浸かるとまるで母親の胎内にいるよう。
ひとりでに体が胎児のように丸くなり、心が落ち着いていくのがわかります。
他の湯治客も、お湯に入るとじっと無言で微動だにしません。ただただ
温泉に入って、ご飯を食べて寝ての繰り返し。お湯に浸かりながら青い空を
流れゆく雲、浴舎の対岸のブナの林、ふわりふわりと空を舞うように散る
落ち葉を、浴槽の大きな窓から眺めていました。

すると四日めくらいから、魂の奥底からむくむくと沸き上がるように
『三味線が弾きたい。』という気持ちが湧いて来ました。
『そうだ。体の具合がどうなっても、一回でも二回でも演奏が出来れば
それでいいじゃないか。私は演奏する為に生かされているんだから。』
そう思うことが出来るようになりました。
もう早く帰って三味線が弾きたくて仕方がありません。
栃尾又温泉に来た時は下を向いて歩いて来たのに、帰りは力が
みなぎっているようでした。

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(栃尾又温泉子持杉)

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(栃尾又温泉夫婦欅)

今も、キラキラと新緑にかがやくお湯に浸かりながら、あの頃のことを
思い出します。

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2008年5月 1日 (木)

『お客様はありがたい。』

昨夜は、西荻窪の音や金時でライブでした。
ジプシーヴァイオリンの太田恵資さんと、タブラの吉見征樹さんとのトリオです。

私は連日の疲れと気温の高さのせいか、ぐったりしていて体に力が
入りません。いつもならお客様がいらっしゃる前に一時間くらい三味
線を弾くのだけれど、今日は10分くらい弾いたらお茶を飲みに行って
しまいました。
なかなか、「よーし。演奏するぞ!」という気分にならないのです。
「どうしよう。」と思っているうちに、お客様がぞくぞくと入ってくるでは
ないですか。今日はゴールデンウィーク中だというのに。

私が三味線を持って舞台に上がると、楽しそうにざわめいていた客席が
一瞬にして水をうったように静まり、はりつめたような緊張感のある空間
になりました。お客様の緊張感が、そのまま私の緊張感に移りました。
先ほどまでの、だれたぐったり感はすっかり無くなり、「三味線を弾きたい!」
という気持ちが体の奥底からわいて来ました。
その時から最後のアンコールまで何も考えることなしに、ただ体の動くま
まに演奏をしていきました。

最後のメンバー紹介の時には、まるで大ホールでのコンサートのように
、「魅惑のジプシーヴァイオリン、太田恵資ぇー!! 指先の魔術師、吉見
征樹ぃーー!!。」と、絶叫してしまいました。
ぐったり感などすっかり忘れて、演奏をする前と後ではまるで違う体になって
いました。

よく、「佐藤さんの演奏でパワーを貰いました。おかげさまで元気になりました。」
なんて言ってくださるお客様がいらっしゃいますが。本当は逆で、パワーを貰って
いたのは私の方だったのです。

お客様はありがたいありがたい。

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2008年4月30日 (水)

「祭りの後の。」

成田山総門前奉納大合奏は、爽やかな青空の下、無事に終える
ことが出来ました。

様々な流派の津軽三味線奏者の方々が心を一つにしての演奏、
青空と同じようにすがすがしい気持ちになりました。

すべての演奏を終えて一旦自宅に帰り、電車で成田山参道の
うなぎ屋さんに行きました。遠い鹿児島から、大合奏のために
成田まで来てくださった方々と、食事会をしたのです。

盃を重ねるうちに宴は盛り上がり、「二年後には鹿児島で発表会
をしよう!
」ということになりました。
同じ参道の他のお店で、やはり打ち上げ会をしていた尺八の勇厳
先生や太鼓のよしみさんも乱入していらして、宴はさらに盛り上が
って来ました。
大合奏に参加してくださった皆さんが、このようにご機嫌な様子を
見て、私はとても幸せな気持ちになりました。

関東一本締めで宴をお開きにして、みんなで参道をそぞろ歩き。
成田山参道のお店は、朝が早いかわりに夜は早く。
他のお店は閉まってしまい人通りも無くて、参道はもうすでに深夜
の風情。
鹿児島の方々はホテルに、勇厳先生は京成成田駅に。
みんなが少しずつ別れて行きます。

参道の街灯の淡いひかりが、やけに心にしみます。

成田山参道の夜は、さみしいのです。

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2008年4月29日 (火)

「成田山大合奏」

今日はいよいよ、成田山総門前での奉納大合奏。

今日のために成田市観光協会の方々と打ち合わせを重ねて来ました。
170名ものいろいろな流派の津軽三味線奏者方々が、日本各地から
成田に集まってくださるのです。
慣れない細かい打ち合わせも苦になりません。

なにかわくわくする思いです。

思えば三十年前、私の師匠山田千里が津軽弘前で初めての
津軽三味線競技大会を開き、その後津軽三味線のふるさと
岩木町体育館で、数千名による大合奏を催しました。
これらの師匠の功績が、現在の津軽三味線の隆盛につながったと、
私は思っています。

私はその千分の一万分の一でも、師匠の真似がしたいと思っています。
津軽三味線は、きびしい津軽の風土が生んだ独特な三味線音楽です。
競い合いながら生まれた三味線です。かつては食べる物も食べれない
ような貧しい津軽の人が、他の人を蹴落としても這い上がり、お金や
名誉を得ようと三味線を弾きました。
ですから今でも津軽三味線のイベントでは「バトル。」というものが多いの
だと思うのです。

しかしこれからは津軽三味線も音楽芸術の一つとして、世界の津軽
三味線になるためには、戦いだけではではなく、相和すということも
大切になっていくと思います。
今日は抜けるような青空のもと、津軽三味線を愛する方たちと心を
一つに、津軽三味線を奏でたいと思います。

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2008年2月20日 (水)

「月日は百代の過客にして・・・」

上野発札幌行きの北斗星号に乗って、釧路に行きます。

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福島県に入る頃から、車窓は雪景色になりました。私は日々
旅の中にあります。

時には今回のような遠くまでの旅。

また時には一時間足らず近い旅。

三味線の演奏の為にいろいろな旅をします。

そのいろいろな旅の中にある私に、安らぎすら感じます。
むかし演歌のショーのゲストに呼んでいただいた時に、ある
高名な姓名鑑定をなさる方が楽屋にいらして、私の名前を
みてくださったことがありました。

私の名前はその方によりますと、『何をやらせても3日ともたず、
同じことを続けることが出来ない。

大凶です。
ただ、針の先のように繊細さがある名前です。』とおっしゃいました。

なるほど私は学生の頃からアルバイトでも3日続けないうちに、
嫌になってしまったり風邪をひいてしまったり、一週間と続きま
せんでした。

三味線の演奏を始めてからも、演劇の仕事のように、同じ会場で
同じことを10日20日一ヶ月と続けるような時には、つまらない毎日
で気が狂いそうになったことがありました。

私は日々違う会場、違う内容、違う方々の中でということで、
新鮮な気持ちで三味線の演奏を続けることが出来るのだろうか、
と思いました。

雪の行路をひた走っていた列車は、いつのまにか止まっています。
青森信号所です。

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機関車を交換して函館を目指します。

『月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。』 松尾芭蕉

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2008年1月25日 (金)

「和リーグ」

今日は高久さんのプロデュース、和リーグの舞台。

同じ邦楽の世界でありながら、同じ舞台に上がることは
あり得ないという組み合わせの共演が行われます。

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太鼓と狂言、津軽三味線と狂言。これも高久さんの和の
世界での顔の広さと、見識の高さからでしょう。
ただこのように、今まであり得ないことをするというような
舞台は、日本ではチケットがなかなか売れません。
今回もだいぶご苦労されたことと思います。

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一部の終わりに私のソロ演奏の舞台。
津軽よされ節、津軽音頭、そして荷方節の三曲。
一曲一曲にそれぞれの照明。
舞台の後ろのスクリーンにはそれぞれのイメージの映像や字幕。
もう否応なしに私の集中力は高まります。

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休憩をはさんで二部の最初は、私と太鼓の響さんとのデュオ。
そして狂言と太鼓とのコラボレーション。

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その後にいよいよ狂言と津軽三味線とのコラボレーション。
私は今まで、お芝居や映画の音楽として参加させていただいた
ことがあります。この場合、もちろんお芝居や映画が主役であり
ますから、私は主役を引き立てるために気持ち的に後ろに下が
って演奏します。
しかし今回は狂言のバックではなく、対等の気持ちで演奏して
よいということで、気持ち的にも音量的にも、思いっきり演奏して
しまいました。

これも、私にとって今までにない新しい試みでした。

狂言師の方のお家は、代々室町時代からのお家柄だそうです。
新しいことやしたことのないことに、抵抗を感じてしまうのではない
かと思っていたのですが。なによりも気持ちよかったのは、狂言
師の方々のふところの広さでした。


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2007年12月 6日 (木)

「北帰行(その二)」

弘前駅に迎えに来た通芳と二人で、師匠山田千里のお墓参りに。

お墓に積もった雪はさほどではなく、手で雪を掃除しました。
お花を替えてお線香を焚いて、手を合わせます。

『先生。私が三味線を弾けるのも、私が三味線を弾いて幸せなのも、
すべて先生のおかげです。ありがとうございます。ありがとうござい
ます。』

まるでお経のようにぶつぶつと語りかけると、ひとりでに涙がこぼれて
きます。
胸が感謝の気持ちでいっぱいになりました。そして生前先生に会えた時に
いつも感じていた、あのつつまれるような安心感がありました。

翌朝、弘前駅まで通芳は見送りに来ました。
駅中のドトールで、二人無言でお茶を飲みます。さぁそろそろ改札口に
行こうという時、通芳がケーキが食べたいと言い出しました。
テイクアウトのケーキを買ってあげて改札口へ。

お互い「じゃあ。」「うん。」と、私は改札を通りました。
しばらく歩き階段を降りかけた所で改札口を振り返ると、通芳は
まだそこにいて、買ってあげた小さなケーキの箱を持ったままこちらを
見ています。

私が手を上げると、通芳も小さく手を上げました。

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2007年12月 5日 (水)

「北帰行(その一)」

今日は私の芸のふるさと弘前に、久方ぶりの里帰りです。
私の芸の親である師匠の墓参りと、ママさんの顔を見に行きます。

上野駅地平ホームから、寝台特急「あけぼの」号での北帰行。

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弘前に行く夜行列車の旅には、様々な思いが交錯します。
上野駅を出る時は、夜行列車が出発するる時の哀愁を帯びた寂しさ。
やがて列車が走り出すと、わくわくする旅の楽しさ。
そして朝、弘前に近づくとこれから師匠に会える嬉しさと不安。

長いような短いような、12時間の旅です。

列車は上野駅をしずしずと動き出しました。
鶯谷のネオンの向こうに、オリオン座がかすかに見えます。
次は大宮駅に停車です。大宮駅のホームには、お勤め帰りの
お客さんが大勢並んでいました。
寝台車の中でくつろいでいる私と目が合ってしまうと、お互い目を
そらしてしまいます。
大宮駅を出ると、少しずつ街の灯りが少なくなり、空の星が輝きを
増していきます。
窓の右上にはオリオン座、左上には北斗七星。

高崎駅を過ぎるともう街の灯りはまったく無くなり、窓から見えるのは
星のまたたきと、うっすら浮かび上がる遠い山々のシルエットだけです。

長い長いループトンネルを抜けると、一面の雪景色。
寝台車の窓は次々に変わる風景画の額縁です。寝台に腹這いに
なって窓に額を寄せながら夜の景色を眺めていると、なかなか
寝ることが出来ません。

水上駅を過ぎ新津駅を過ぎた頃から記憶が無くなりました。

明るい日差しの中、ふと目を覚ましました。
車内はしーんと静まりかえっています。列車の揺れも走行音もしません。

窓の外を見ると鉛色の空の下、日本海の荒波が打ち寄せています。
強風が原生林の木々を揺らし、電線がうなり声をあげています。
駅でも無いそんなところに、列車はぽつんと停まっているのです。

強風のため列車の運転を見合せ、と放送が入りました。
ふつう列車が駅の途中で停まってしまったら、とても不安に思うものです。
でも今は違います。寝台車に乗っているのです。浴衣姿で寝そべって
いればいいのです。水も食料もあるし、トイレもある。
何時間停まっていても大丈夫。『このままここで、いつまでもいつまでも
停まっているのかなぁ。』と思ったら、かえってわくわくして来ました。

やがて列車は時速15キロの徐行運転で動き出しました。
日本海の荒波や強風に揺らぐ林や、長い鉄橋をゆっくりゆっくりと。
小さな町の小学校に登校する子供達は、『おはよう。』と声を掛け合って
いるのが聞こえるようです。無人駅を通過すると、女子高生がホームの
待合室にすし詰め。浴衣姿で外を見ている私を指差して笑っています。
また眠ることが出来なくなりました。

弘前駅には、一時間半遅れでの到着。
寝ぼけまなこの通芳が、改札口に来ているでしょうか。

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2007年11月15日 (木)

「広島にて。」

昨日、茅ヶ崎市民会館で高校生を対象にした学校公演を終えて、
そのまま東京駅から広島に入りました。

朝、目を覚まし、ホテルの窓から空を眺めると抜けるような青空。
宮島のあなご飯弁当を買いに行くことにしました。
広島駅から電車で30分弱。宮島口駅に着きます。あなご飯弁当は
宮島口駅の駅弁なのですが、駅ではなかなか手に入りません。
駅から少し歩いて弁当屋さんへ買いに行きます。
ところが弁当屋さんの前はすごい人。あなご飯弁当は予約しても、
今から二時間後だそうです。

予約をしてから、日本で唯一残った鉄道連絡船に乗って宮島へ。
宮島は折しも紅葉の季節とあって、すごい人。
かつて、連合艦隊司令長官山本五十六が愛人と密かに逗留した
『岩惣』も、観光客でいっぱいでお茶も飲めません。
人は多くても、もみじ谷のもみじは素晴らしかったです。

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今夜は『広島オーティス』でのライブ。
もう何年続いているのでしょう、年1、2回の『オーティス』でのライブ。
今夜もマスターの佐伯さんをうならせる演奏をしなければ。

佐伯さんに、「今回の演奏も素晴らしかったです。」と言われたいのです。

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